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クリニック西川

2011年6月

時間の速度

私たちは3次元の空間に時間という4次元の自空間に存在しています。ところが、この4つの次元のうち、時間は他の次元とかなり異なっています。私たちは3つの次元、縦、横、高さにおいては正負のいずれの方向にも自分の意思で移動することができます。ところが時間軸だけは負の方向には動くことができません。未来に向かってしか動けません、しかも、この移動は自分の自由にできるわけではありません。自分の意思とは無関係に一定の速度で未来へ未来へと動かされるだけです。時間とは巨大なベルトコンベアであり、私たちはそこに載せられた荷物のような存在です。
このベルトコンベアの速度は一定です。生まれてからこのかた、1秒は1秒、1日は1日で、時の流れが速くなったり遅くなったりした経験はありません。時間は太古の時代から一定不変の速度で滔々と流れていると考えるのが常識です。
ところで、物理学で速度とは一定時間に進む距離(空間)のことです。したがって「時間の速度」という言葉は矛盾した概念で、あり得ない表現と思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに以前はそう考えられていましたが、ところが実はそうではなさそうです。
アインシュタインの相対性理論によればすべての事象は相対的ですから、3次元の空間軸だけでなく、時間軸もまた相対的なのです。
実際に光速に近い速度で動くと空間が縮んで時間の流れは遅そくなります。 亜光速速度で飛ぶことができる宇宙船に乗って一年間、宇宙を旅して帰還したとすると、地球上では数百年過ぎているというようなことが想定されます。
この現象は日本のお伽噺、「浦島太郎」で、主人公の浦島太郎が竜宮城で数日間楽しい日々を送って帰ってみたら、地上では何百年もの時間が過ぎていたという話とそっくりです。そこから、こういう現象を「ウラシマ効果」と呼びます。
現実には今の科学ではウラシマ効果を体験することはできません。なぜならば光速に近い速度で飛ぶ技術を持っていないからです。しかし、素粒子レベルの現象では確認されています。
また、重力が働くと同じ原理で時空が歪んで時間の流れが遅くなります。したがって何もない宇宙空間に比べて地球などの星の上の時は遅くなります。この理由でGPS衛星の内臓時計は毎秒当たり4.45/10億秒だけ遅く進むように補正されています。

今説明した物理学的な時間の流れの変化は極限的な状況でないと現われません。しかし日頃私たちは、もっと劇的な時間の流れの変動を体験しています。それは私たちが体験する時間、心理学的な時間です。
東日本大震災で被災した方は言うまでもありませんが、首都圏で帰宅難民となり、深夜やっとの思いで自宅に辿り着いた方も、3月11日の24時間はいつもより格段に長かったのではないでしょうか。それに比べて、無為に過ごす日曜日の24時間ははるかに短く感じます。つまり、3月11日は多くの人の心理学的な時間速度が有意に遅くなった日だったと言えます。
非日常的な出来事があった時には、必ず時間の流れが遅くなるかというとそうではありません。長年思い続けていた女性とやっと念願がかなっての初デートは震災に優るとも劣らないビッグイベントです。それにもかかわらず皮肉なことに、こういう場合の心理学的な時間はスピードアップします。もっと一緒にいたいと思ってもあっけなくタイムアップです。
特別なことがない日の時間の流れも、年齢によって大きく変化します。誰でも、子供の頃の一日が現在の一日よりもはるかに長かったという実感を持っているのではないでしょうか。加齢とともに時間の速度は速くなるのです。
年齢と心理学的な時間の関係について、単位時間の長さは生きてきた年数の逆数であると言う心理学者がいます。すなわち1歳の時の一日を1とすると、10歳における一日は1/10、20歳では1/20になるというのです。
私は今61歳ですから、私の体験的な時間の速度は10歳の時の6倍速くなっていることになります。さすがに、それほどの差は感じませんが、この説は当たらずと言えども遠からずではないでしょうか。それでは、この心理学的な時間速度の変化はどうやって生み出されるのでしょう。この問いには未だ誰も答えを出していません。そこで、以下に私の勝手な仮説を述べてみます。

前回のコラムで10歳過ぎると、私たちの脳の大半は二度と再生しないと言いましたが、神経間の情報交換の主な部位であるシナプスは時々刻々生成、消滅を繰り返しています。むろん、10歳までは神経細胞自体が増殖していますから、シナプスの増加が10歳以降と比較にならないほど多いのは言うまでもありません。
一方、初老期から老年期になると、シナプスは新生されるよりも消失していく方が多くなります。子供の時間がゆっくりと流れて、加齢とともに時間がせわしく流れる理由はこのシナプスの増減過程に起因しているのではないでしょうか。
シナプスの数の問題の他に、一つのシナプスにおける神経伝達物質の放出量の問題も考える必要があります。脳は課題を与えられるとシナプスでの神経伝達物質のやりとりが急増します。わくわくするデートの間と、つまらない授業を受けている時とは神経伝達物質の放出量が大きく異なっているはずです。さらに詳しく、報酬系、抑制系というように機能系別にみると量だけでなく、放出パターンも異なっているはずです。
こういったことから私は、ヒトが体感する時間の速度はシナプス生成数と神経伝達物質の放出パターンのバランスによって決定するのではないかと考えます。
物理学的に同じ年数を生きたとしても、どのような日々を生きるかによって心理学的寿命は大きく異なってくるのではないでしょうか。ただ生きながらえるのでなく、豊かな寿命をまっとうしたいものです。

明日も今の自分でいられるの?

ある朝、目を覚ますと自分が巨大な虫に変わっていた。これはカフカの有名な小説、「変身」の書き出しです。シュールな話の代表とされています。人間が虫に変わってしまうなんてありえないという常識が前提になっています。

確かに、古今東西、人が虫になった事例は聞いたことがありません。犬が猫になることも、猿が牛になることもありません。人は生まれてから死ぬまで人であ り続けます。しかも、3歳頃に「自分は自分である」という意識を持ってからは自分は自分であり続けます。自分が徐々に成長してやがて衰えて死ぬという一連 の体験をします。

どんなに風貌が変化しても違う人間になったとは感じません。自分の外見が変化したと自覚します。当たり前のことだと思われるかもしれませんが、昨日の自分と今日の自分が同一であると認識できる能力は実はとてもすごい能力なのではないでしょうか。

 

生物は新陳代謝を行って、常に細胞が入れ替わっています。つまり古くなった細胞が死んで新しい細胞と入れ替わっています。ヒトの身体は約60兆個の細胞 から構成されています。天文学的な数の細胞と思われるでしょうが、1秒間に500万、1日では約5000億個の細胞が死を迎えて、それと同じ数の細胞が新 しく生まれているのです。単純に計算すると120日経つとすべての細胞が入れ替わることになります。つまり120日前の私と現在の私とはそっくりですが全 く別物と言えます。

細胞レベルでは別人と言えるのに、4か月前の自分の体験は今現在ある私の過去の体験として実感できます。自己を認識する機能が継続性を持っているからです。この自己同一性の保持はなぜ可能なのでしょうか。

一番大きな理由は脳の特殊性にあると考えます。先ほど1日に5000億個の細胞が入れ替わると言いましたが、これは随分乱暴な計算による数字です。実際には入れ替わりの速度は細胞の種類によって雲泥の差があるのです。

消化器系の粘膜細胞は新陳代謝がとても速く、5日周期で入れ替わります。心臓の筋肉が22日周期、皮膚細胞が30日、骨格筋や肝臓の細胞が60日周期、骨細胞が90日周期、赤血球が120日周期で細胞を交代します。

ところが、脳細胞はいったん出来上がると原則として入れ替わることがありません。脳細胞は3歳までに70%、6歳までに90%、10歳までにほぼ140億個の細胞が出来上がります。その後は細胞の入れ替わりや補充はなく、減る一方です[i]。 その減り方は驚くほどで、1日平均10万個減ると言われています。さらに私のような喫煙者は、喫煙時に吸い込む一酸化炭素によって、煙草一本当たり200 個の脳細胞が死滅するという人もいます。40年を超える喫煙歴の私の脳はもう相当にスカスカになってしまっているでしょう。

このように、いろいろな原因で細胞が死滅した際、皮膚などの細胞は再生して損傷個所を補いますが、脳の場合には死んでしまった細胞は補充されません。破 壊に対してやり直しがききません。非常に特殊な臓器なのです。ところがそこはよくしたもので、脳は再生できないというこの致命的と思われる、弱点を膨大な 数をあらかじめ配備しておくという方法で補っています。

破壊されたら再生しないのに、外傷や脳外科の手術などで脳の一部が破壊されても、その後のリハビリテーションで機能が回復するのは、この物量作戦のおか げです。それまでは死んでしまった細胞が担っていた機能には全く関与していなかった細胞が、訓練によって死んでしまった細胞の機能を引き継ぎます。それま では昼行燈のように何をしているのか分からない細胞が、仲間が討ち死にすると「いざ鎌倉」と活躍するということです。

昨日の自分が今日の自分と同一であり、明日の自分も同じであり続けられる秘密はどうやら脳細胞のこの特殊性にあるようです。もし脳細胞が粘膜細胞のよう に短期間で入れ替わるならば、1週間くらいで新しい自分になってしまうかもしれません。それはそれで日々新鮮な気持ちで生きられるかもしれませんが、いつ も不安でしょうがないでしょう。

言い換えれば、自己同一性を継続的に保持するために、脳はあえて再生能力を犠牲にしていると考えてよいのではないでしょうか。



[i]最近の研究で脳細胞も特定の部位ではある程度再生することが分かってきました。また、シナプスはこれまで考えられてきたよりもずっと活発に新生、消失していることが明らかになっています。

夢しましょう

「昨日は楽しい夢を見ました」、「最近、怖い夢ばかり見るんです」、「このところ、夢も見ないでぐっすり眠ります」など、私たち精神科の診察室ではよく夢に関する話題が話されます。ところが、ある時疑問に思いました。「夢とは見るものだろうか?」と。
私たちは何の気なしに「夢を見る」と言い、「夢を聞く」とか「夢を嗅ぐ」、「夢を触る」、「夢を味わう」とは決して言いません。それでは、夢とは視覚に限定された精神活動なのでしょうか。もしそうならば、視覚障害者の人は夢を見ることができないことになります。ところがそんなことはありません。視覚障害の人もちゃんと夢を見ます。
でも、先天的に目の見えない人の夢にはやはり映像はないそうです。途中失明者も失明直後は映像化された夢を見ますが、視力を失って時間が経つにつれて映像のない夢に変わっていくそうです。視覚障害の方の夢は視覚ではなく、残された感覚、聴覚、触角、味覚、平衡感覚、内臓感覚で構成されます。
確かに五感に不自由がない私の夢においても、よく思い返してみると登場人物の発言に怒りを感じたり、とがったものが身体に刺さって痛い思いをしたり、美味しい物を食べて満足した覚えがあります。
特に、私が何回か経験して印象深いのが空を浮遊する夢です。身体中の力を抜いて念じると、自分の身体が少しずつ浮遊していきます。初めのうちは要領がつかめないので頭位をうまく保持できません。横になってしまったり、仰向けになってしまったり、逆立ち状態になってしまいますが、時間とともにコツをつかんで思いのままに空中を浮遊し思い通りのところへ行けるようになります。
この夢の主体となる感覚は深部感覚と平衡感覚です。朝起きても暫くの間は全身の筋肉を意図的に脱力する感覚と、空中をふわふわ漂う感覚が残っています。実際に飛べるのではないかと思ってやってみるのですが、夢は夢、起きてしまうと1㎝も浮きません。馬鹿馬鹿しいと思われるでしょうが、実際にやってみたくなるほど生々しい感覚が残っているのです。
視覚障害者の夢や空中浮遊の夢から分かる通り、夢は視覚だけではなく、すべての感覚に訴えているものなのです。それなのに、なぜ「見る」と表現することに違和感を覚えないかというと人の現実の行動自体が圧倒的に視覚に依存しているからではないでしょうか。夢は現実の行動を反映します。ですから夢の記憶の多くが視覚的なイメージとなるのだと思います。本当はそれぞれの場面で、映像だけではなく音、匂い、味、痛みなど、すべてを感じているのです。だから、「夢を見る」という表現は本当は正しくないのです。
それでは「夢を感じる」と言えば正しいのかというと、それでもまだ夢の本質を表してはいません。夢は感じるだけの脳の受け身の活動ではありません。夢の世界では、実際の身体の動きはありませんが、喧喧諤諤と会社のライバルたちと激論を交わし、あこがれのマドンナと楽しいデートをする体験をしているのです。感覚ではなく体験です。
しかもその体験は舞台上の出し物をただ観ている観客としての体験ではありません。夢の世界では自分自身が演出し主演を演じているのです。脳の極めて能動的な活動なのです。ですから、「夢をする」というのが正しい表現なのではないかと思います。そしてその夢の中の体験は、現の世界で私たちを縛っている時空の制限を超えることができます。何1000万光年先の宇宙ででも、40年前の時代ででも活躍することができるのです。
さあ今夜も思う存分楽しい夢をしましょう。

蛙鳴蝉噪

法律や約款を見ただけで目をそらしてしまうのは私だけでしょうか。仔細漏らさず正確に記そうとしたためなのか、人をたぶらかそうとした結果なのか、とても分かりづらい文章です。
私はつい最近まで契約書や約款をきちんと読み通したことがありませんでした。しかしこのために、少なからず不利益を被った苦い経験から、最近はこういったややこしい文章も自分とかかわりのある部分だけは読むことにしています。
この作業で私が原則としているのが反対解釈です。条文の真意は書いてある文言の反対のことであると解釈するのです。こうした方が分かりやすくて騙されません。たとえば「明らかな故意に基づく損傷の場合には保証を免ずる」とあれば、「明らかな故意に基づく損傷と証明されない限り保証義務が有効である」ということです。「排除手続きを妨げない」とあれば「排除する」ということです。
うがった見方かもしれませんが、重要で争いになりかねない個所ほど回りくどい言い方をしているように思えます。「○○しないことを妨げない」などという二重否定文もしばしば使われます。相手を煙に巻いてトラブルが発生した時に自分に有利になるように仕掛けられているのだと思います。
言葉を小賢しく弄することが上手な者と言えば官僚の右に出るものはないでしょう。重要法案が、官僚が書き加えた一行によって骨抜きになることは日常茶飯事です。
最近の政治家も人間力や歴史観を磨くことはせずに、もっぱら官僚言語の習得に努めているように見受けます。我が国の将来のビジョンを語ることはできないのに、その場を凌ぐ能力だけはかなりなものです。

管総理の不信任案騒動。またもや言った言わないのガキの喧嘩が繰り広げられています。「震災対応に一定の目途がついた段階で若い世代に責任を引き継ぎたい」という発言を与野党政治家は言うに及ばず大半の国民が「近々辞める」と解釈しました。しかし、当の御本人とその取り巻きは「辞めるという言葉は言っていない」と居座りを決め込んでいます。これには厚顔無恥には慣れっこの永田町の連中も大変な剣幕です。仲を取り持ったつもりの鳩山さんなどは「ペテン師」とまで発言。怒り心頭に発しているようです。
でも先ほど述べたとおり、政治家と官僚の言葉は反対解釈をしなければ真意がわかりません。そうすれば、管の真意が「復興の目途が立たない限り絶対に辞めない」であることは明白です。今更怒る方が間抜けというものです。今頃、管はしてやったりと、ほくそ笑んでいるでしょう。被災者はさておいて、これまでのようにぐずぐずと復興対策を遅らせれば遅らせるほど自分が延命できるのですからおかしな話です。

小学校の頃にもこういう奴はいました。「このおもちゃ君に貸してあげるよ」と言っておきながら、いつまでたっても貸してくれない。「貸してくれるって言っただろう」と問い詰めると、「いつ貸すとは言っていない。10万年後に貸してあげるよ」。
こういう奴はクラスの話し合いの会などで本領を発揮しました。言葉尻を捉えて相手を非難したら向かうところ敵なしです。しかし、昔のガキ大将を中心とした縦社会では、いくら弁が経ってもガキ大将に「うるさいへ理屈言うな」と一喝されて社会の健全性が保たれていました。
今日の、縦のつながりがなく、同い年の集団に大人(先生や親)が参加するだけの子供社会では、ガキ大将による健全な子供社会が成立しません。妙に物分かりの良すぎる大人の影響でこういう輩が幅を利かして大きくなってしまいます。
こういうガキ、そしてそのなれの果てである弁の立つ大人はぎゃあぎゃあ議論する能力には長けていても決定的な能力が欠落しています。それは、自分が嫌われ者であり、馬鹿にされているということを感知する能力です。
口から先に生まれたような、ませガキは大抵嫌われ者、いじめられっ子でした。政治家も、目先の政局に勝利すればするほど国民から尊敬されるどころか、軽蔑、嫌悪されることにどうして気付かないのでしょう。
菅直人だけではありません。普段は国会で居眠りの合間に野次を飛ばしているだけの連中が少なくありません。そういう奴にかぎってテレビカメラを向けられた途端にまじめ顔で、昨日の発言と180度違うことを臆面もなく口にします。そういう連中の戯言を聞いているうちに、彼らの顔が蛙に見えてきて、「蛙鳴蝉噪」という言葉を思い出しました。
「蛙鳴蝉噪」とは蛙や蝉のようにげろげろ、みーんみーん耳障りな鳴き声から、無駄な表現ばかりで内容が乏しい無用の議論や文章のことを言います。彼らがしたり顔で「粛々と」とか「国民本位で」とか言っても、何の感慨も持てません。真意の「権謀術数をつくして」、「自分の利益のために」が見え見えだからです。
口先蛙は何百人も要りません。うるさいだけでなく私利私欲の亡者ですからは百害あって一利なしです。速やかに議員定数を半分以下に削減しましょう。官僚の削減よりも急務だと思います。
しかし、欲張りな連中が自分の首を絞めるようなことをするはずがありません。私たち一般国民が声を大にして蛙を退治しなければなりません。また、その責任があるのです。
今回のドタバタ劇を見た被災地の町長が疲れ果てた顔で、「私たちが選んだ人たちですから・・・・・」と呟いていました。蛙は私たち国民の心を写す鏡なのかもしれません。私たち自身が猛省しなければなりません。
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