白居易が楊貴妃の美しさを「太液芙蓉」と記したように、蓮の花は昔から美人を表す言葉として用いられる。また、「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」はあまりにも有名な美人を喩える表現である。「高嶺の花」で言われる花は高山に咲く山百合を指しているように思う。
「いずれ菖蒲か杜若」と言うのだから菖蒲や杜若も美人の代名詞と言える。蘭の花に女盛りの美女を連想するのは私だけではないだろうし、相手を薔薇の花に喩えて口説いた経験をお持ちの男性諸氏も少なくないはずである。
そのほかに、その色香で人を魅了する金木犀、銀木犀も女性の魅力を存分に表わしている。また、花ではないが柳はその細さ、しなやかさから「柳眉」とか「柳腰」と言って、柳も美人の喩えとなる。
こういった表現は分かりやすく、すぐにそれらしき女性を思い浮かべることができる。一方、具体的に何を指しているのか分からない美女像もある。その1つが「水も滴るいい女」だ。水浸しの女のどこがよい女なのだろう。
想像するに、肌がみずみずしく艶やかであると言いたいのではなかろうか。確かに、若者は押せば水が溢れてくるのではないかと思えるほどみずみずしい肌を持っている。一方、加齢とともに肌は乾燥して色気が失われていく。水っぽさは色気の重要な要素と言えよう。
因みにこの表現、最近はこのように女性に対しても用いるようになったが、本来は美男子に対して「水も滴るいい男」として用いる言葉である。
もっと分からない美女に「小股の切れ上がったいい女」がある。幼い頃初めてこの言葉を聞いた時は、股が切れて血が出ている女性を想像してしまった。色気どころか妖怪じみて美女の姿は想像できなかった。今は股間から血を流した女を想像することはないが、未だに小股が何なのだか分からない。
私はその後、落語や時代劇の台詞を通してこの言葉をしばしば耳にする機会があったので、いつの間にかこの言葉を耳にすると自分なりの美女を想像できるようになった。しかし、この年になっても、どこを小股というのかは理解できていない。
広辞苑によると小股とは①歩幅を小さくすること、②股のこと、とある。歩幅を小さくすることはよく分かる。和服を着た場合、大股開きでは歩けない。確かに、可憐な乙女ほどしゃなりしゃなりと小さな歩幅で歩いている。ここまではよい。しかしこの「小さな歩幅」を切るとなると、まったくもって意味不明。一方、②のをとるならば股裂け女の再登場だ。
そこで、改めて「小股」とは何か調べてみたら、まことしやかな説を幾つか散見した。
①脛から膝頭までの部分:ふくらはぎが発達した和服姿の女性と正対すると脚の間に隙間ができて脛から膝にかけて切れ上がったように見える。すなわち筋肉質で太っていない女性を指している。こういう女性がさらにしどけなく着崩すと、裾から脛や膝がはみ出して見えて色っぽい。
②足の親指と人差し指の間:足袋を履いた時、親指と人差し指の間がきりっとしていると美しい。足元のおしゃれにも気を使っている女性ということ。
③足の小指と薬指の付け根の部分:②と同じく足袋姿においてこの部分がきりっとしていると美しく見える。
④小股はまさに股のこと:「小」は単なる修飾語。すなわち股が切れ上がるとは腰の位置が高い、足が長い女性である。
⑤足首のアキレス腱の部分:ここが細い女性を指す。つまり足首がきゅっと締まっていることを切れ上がっていると言う。
⑥耳の後ろのうなじの部分:うなじの部分がすっと上に色っぽく髪が結いあがっている女性を指す。
諸説紛紛であるが、考えてみるに、それぞれ自分の好みのポイントを牽強付会に小股と解釈しているのではないだろうか。
結局のところ正確な答えには至らなかったが、おぼろげな美女像は浮かび上がってきた。まず、肥満体ではなく、すらりとして足が長く、筋肉質で足首がきゅっと締まっている。手足の指も長めで頸筋も長く襟足がきれい。性格的には「切れ上がる」という語感からして、内気な女というよりは、きっぷのよい女。あの筋の姉さんなどに多そうな女性ではないだろうか。
かなり具体的に「小股の切れ上がったいい女」のイメージが固まってきたので、今晩の夢で会えるように急いで眠ることにしよう。
あるところに正直村と嘘つき村という2つの村がありました。正直村の人は必ず本当のことを正直に言います。一方、嘘つき村の人は必ず本当のこととは逆のことを言います。正直村に行こうとした貴方は、分かれ道に来ました。一方は正直村に、もう一方は嘘つき村に通じていますが、どちらに行けばよいかわかりません。ちょうどその分かれ道に1人の村人が座っています。その男に道を聞きたいところです。しかし、その人が正直村の人か、嘘つき村の人かは分かりません。もし、その人が正直村の人ならば正直に道を教えてくれるでしょう。しかし、嘘つき村の人ならば全く反対の道に案内されてしまいます。その人に一言だけ質問して正直村へ行く正しい道を知るにはどう尋ねればよいでしょう?
これはよく知られた論理クイズ、「正直村と嘘つき村」。正解は「「貴方はどちらから来たのですか」である。
もし、この村人が正直村の人ならば、正直に正直村への道を教えてくれる。もしこの村人が嘘つき村の男ならば、嘘をつくので、自分が来た道ではない、正直村への道を教える。と言うことは、その男がどちらの村人だとしても、正直村へ行く道を指し示す。したがって、その男がどこの出身かとは関係なく、その男が示す方の道を進んでいけば無事に正直村に着くことができる。
嘘つきに対する実にスマートな対処法である。ところが現実の嘘つきははるかに厄介で、これほど簡単にはいかない。なぜならば、本当の嘘つきは必ず嘘をつくとは限らない。嘘と本当を絶妙の配合で織り交ぜてくるからだ。
嘘つきのプロ、詐欺師ともなると心してかかっても騙されてしまう。こういった輩の手口を知り尽くしているはずの警察官や弁護士までもが被害に遭うことがある。
生来人を信じやすい私は、これまで数えきれないほど嘘に振り回されてきた。騙されたと気付いた嘘はまだ可愛い方で、未だに気がつかないまま大きな嘘の世界で踊らされているのかもしれない。それでも、これまでの苦い経験から、嘘から身を守る嗅覚を少しは鍛えたつもりである。そこで、私なりに危ないと思う人物や状況の幾つかをお教えする。
まず、「本音を言うと」「正直言って」「率直に申し上げて」という前振りには要注意。こういった言葉は正しい語意と正反対に、「建て前を言うと」「嘘を言うと」「あることないこと織り交ぜて言うと」と解釈してまず間違いない。この前振りを聞いたならば急いで眉に唾しなければならない。
なぜならば、もともと正直な発言をする者ならば、何もわざわざ「正直言うと」などと断る必要がない。したがって、こういった前振りをするということは自分が嘘つきであることを認めているに等しい。さっきのクイズの論理から言って、その嘘つきが大上段に振りかぶって「正直」というのだから、大嘘に決まっている。
こういう前振りを頻発する人がいる。そういう人は大抵あることないこと織り交ぜて喋ることを習いにしていることが多いので、常に話半分にして聞くことにしている。
私が心を許さないことにしているもう一つのタイプは、口元が笑っているのに目が笑わない笑顔の人である。こういう人に限ってやたらと笑顔を振りまく傾向がある。周囲からは温厚で優しい人という評価を得ていることが多い。しかし、温厚の源である笑顔をじっくりと観察すると、柔らかい口元には不似合いな冷たい視線を感じる。
目が笑わない人は単純な嘘つきとは違う。細かい嘘をつくというより、大きな局面で裏切られることが多い。情緒的なつながりを持ちにくく、人間として信頼できない。つまり、口元の「いつも貴方のことを思っていますよ」という笑顔を信じて心を許していると、重大な局面の時に頼っていくと、「これは君自身問題でしょう」という冷徹な眼差しにばっさりと切り捨てられることを覚悟しておかなければならない。
最近、世の中は嘘つき村の住民に占拠されてしまった感がある。至る所で嘘が横行し、より上手な嘘つきが出世する仕組みが確立してしまった。ことに政界における跳梁跋扈は目に余るものがある。
利、巧、令が幅を利かし、仁、義、信といった字句が死滅してしまった。その極みが管総理だろう。その場その場受けの良い言葉を発することでひたすら保身に走っている。しかし、彼を非難する議員たちも、そうしたらテレビでいかにも真面目で情熱的に映るかという点にしか頭が働いていない。
嘘つき村民だらけの中から一人の正直村村民を見つけ出すためにはどんな質問をすればよいのだろう。私にはその正解は全く見えてこない。
最近の日本語は本音を見透かされることを誤解されると言うらしい。松本龍前復興担当大臣の失言事件はまだ記憶に新しい。被災県の首長を捉まえて、「知恵
を出したところは助けるけど、知恵を出さない奴は助けない。」、「九州の人間だから、何市がどこの県だか分からん。」、「お客さんが来る時は、自分が入っ
てから呼べ。長幼の序が分かっている自衛隊ならそんなことはやるぞ。」
「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと、我々は何もしないぞ。」続いて、同席していたマスコミに対して、「今の最後の言葉はオフレコです。みなさん、いいですか、絶対『書いたらその社はもう終わり』だから」。
さらに、こういった発言が報道されて大騒ぎになった際の釈明では、「私は九州の人間ですけん、ちょっと語気が荒かったりして、結果として被災者の皆さん
を傷つけたということであればお詫び申し上げたい。」、「ちょっと私はB型で短絡的なところがあって、私の本意が伝わらないという部分があるということ
は、反省しなければならない。」
結局は就任後9日目にして復興・防災大臣を辞任した。辞任会見では「言葉が足りなかった」、「誤解を招くような発言をしたことをお詫びする」と頭を下げた。
政治家のこういう釈明場面を何回見たことだろう。しかも、その場で語る言い訳の言葉も判で押したように同じである。きっと、陳謝のためのマニュアルがあるに違いない。
しかしこの男は別に言葉が足らなかったわけでも、誤解を招いたわけでもない。むしろ彼の一連の言動は非常に正しく彼の真意、人間性を会話の相手にも国民にも正確に伝達できている。その表現能力は秀逸と言える。
人間の会話による意思伝達において言語そのものが占める意義はそれほど大きくはなく、言語そのもの以外のパラコミュニケーション(語尾、イントネーション、表情、身振り手振りなど)の方がはるかに多くの意味を伝達していることについては小欄で説明した。
ところが政治家にしろ官僚にしろ、言語そのものをうまく使いこなせれば民衆を欺くことができると信じているふしがある。ところが私たちはそれほど馬鹿で
はない。ことにパラコミュニケーション能力は学校での教育とは別であり、相当に語彙が乏しい人でも、いや語彙が豊富でない人ほど、パラコミュニケーション
からの情報読み取り能力が研ぎ澄まされる。いくら格好良い慣用句や四文字熟語を並べ立てても、陰に隠された真意、相手の価値観や人格は察知される。政治家
たるもの磨くべきは舌先の話術ではなく、基盤となる人格であろう。
さて、今回の一連の言動が不愉快極まりないのは、「国は地方より偉い」、「国民に対してやってやる」という上から目線のお上意識と自分より下と見做した人間へは露骨に恫喝をするという醜悪な人間性がむき出しだからである。
しかもその下品な人間が自分の立場についておおいなる勘違いをしている。被災地復興大臣が被災地に赴くのはごく当たり前の役務のはずだ。そんな反来の業務
に対して、被災者たちがいちいち三顧の礼を尽くしてお迎えをしなければならないのならば、復興特命大臣など必要ない。それなのに、口をついてでた言葉が
「客」であった。勘違いも甚だしい。語るに落ちる*とはこういうことを言う。
その後、国民が許してくれるのではないかと思って言った「自分は九州の人間じゃけん」、「B型だから」という弁解が、多めに見てもらえるどころか、かえって九州やB型の人たちをも侮辱する結果を招いた。当然非難の輪が広がった。どこまでも感性の鈍い人である。
辞任会見では己のことを「粗にして野だが卑ではない」とどこまでも粋がって見せたつもりが、最後まで自己洞察が欠落していることを露呈することになった。粗と野は品行の問題であり、細やかさがなく、洗練されていないことを言う。この点については本人の自覚通りである。
一方、卑は品性の問題である。本人は粗野にして卑でない人間像をB型九州男児の理想像としているようだ。そして己を不器用な高潔の士と自任しているのだろう。しかし、主人が使用人をいびるような言葉を被災民の長に連発した姿を卑と言わずして何を卑というのであろう。
彼の功績を上げるとすれば、こういう人間にだけはなってはいけないという反面教師像を示したこと以外にない。
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*語るに落ちる:うっかり本当のことを言ってしまうこと。
「似た者夫婦」とは「夫婦は互いに性質や好みが似る」ということ。または、「性質や好みが似ている夫婦」という意味です。
趣味や物事に対する価値観は結婚を決定する大切な要因です。夫婦が似ているのは当然と言えます。さらに、長年にわたり運命共同体として生活していれば、好みや考え方がますます似てきても当然です。
数年前、防衛省で天皇と呼ばれたM元次官は夫婦そろって出入り業者にたかり放題だったことで有名です。「おねだり夫婦」と呼ばれた体質は、もともと欲張りの性質が、二人での長年の共同生活でさらに一層磨きがかかったものと思われます。
この夫婦、行動理念だけでなく顔かたちもそっくりです。報道された写真を見ると、どちらもこでっぷりとした体型と丸顔で、二人並んでいると夫婦というよりまるで兄弟のようです。体型はいつも一緒に同じメニューを食べているのですから、同じようにメタボになったと推察できますが、顔立ちまでそっくりなのはどうしてでしょう。
街を歩いている家族連れをあらためて観察してみると、M元次官夫婦に限らず、近親相姦ではないかと疑いたくなるほど、外見がそっくりな夫婦が存外多いことに気付くはずです。顔まで似てくるというのはどういうことでしょう。
配偶者に似せて美容整形をしたという話は聞いたことがありませんから、自分に似た異性を好きになると考えるのが素直です。女装した自分を想像するとちょっと気持ち悪いですが、潜在意識下において男は母を、女は父を求めると言いますから、とどのつまり自分と似た顔の異性を求めているのかもしれません。
実際に、広く動物界には形態的に似た者同士が惹かれるアソータティブ・メイティング(assortative mating)という現象が知られています。自分のもっている遺伝戦略を色濃く子孫に伝えていくためには、自分と似たものをパートナーに選択することがもっとも確実な方法です。
ところが、遺伝形質が近ければ近いほど種の保存にとって有利かというとそうではありません。あまりに遺伝子型が収斂してしまうと、決まった環境では繁栄できても少し環境が変わると、新しい環境に対応できなくなる可能性があります。たとえば体毛が濃く、発汗機能が弱く寒さに強い遺伝子だけが伝えられると、地球温暖化が進むと生存が危うくなります。
遺伝子型が多様化していたほうが子孫が生き残る確率が高くなります。この種保存という至上目的のために、自分と大きく異なる遺伝子を保有する異性を求めるように、私たちの脳がプログラムされているという学説があります。
実際に、免疫に関係したある種の防衛遺伝子型が全く違うもの同士ほど、一目ぼれする確率が高かったという実験結果があります。
どうやら惚れるメカニズムはそう単純ではなさそうです。したがって、夫婦の顔かたちが似る原因をDNAだけに求めるには無理があります。それによく似た夫婦の若かりし頃の写真を見ると、出会った当時は必ずしもそっくりではありません。長い年月一緒に生活していくうちに容貌が似てくるとしか考えられないカップルが多いのです。
さらに「似た者夫婦」現象の遺伝子説に否定的なもう一つの根拠があります。それは、一緒に生活していると似てくる相手が人間とは限らないことです。公園にペットを連れて集まってくる人たちを観察してみてください。種を超えた「似た者夫婦」現象を見ることができます。
プードルに似た人がプードルを連れて、ブルドッグそっくりな人がブルドッグの手綱を引いていることがそう稀ではありません。まるで蛸が周囲の景色に似た模様に変身する擬態のメカニズムが働いているかのようで、謎は深まるばかりです。
そういえば、猫に囲まれて暮らしている私は近頃口髭が太くなって、耳がとがってきたようです。