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クリニック西川

2011年8月

人間原理

この宇宙の始まりの始まりは、真空のもつ量子の揺らぎが何らかの理由でバランスを崩し、爆発的に広がったと考えられる。この時に現在の宇宙を構成するすべての物質が生み出された。この際、物質と反物質*はほぼ同じ確率で生成される。しかし物質と反物質はお互いが触れた瞬間にエネルギーを放出して対消滅してしまう。したがって大半の物質と反物質は生まれた瞬間に消滅してしまった。
この宇宙が見渡す限り物質でできているのは、この宇宙創造の際にほんの極僅かだけ物質の方が多かったからだ(CP対称性の破れ)。もし、反物質の方が多かったら今の宇宙は反物質で構成されており、現在とは恐ろしく様相を異にしていたに違いない。 また、物質と反物質の生成量にあまり大きな差があったならば、このような広がりを持った宇宙は形成されなかったと考えられる。どちらにしろ、私たち地球人が快適に生きていられる宇宙はできなかった。物質と反物質生成量の間の絶妙のずれがなければ私たちは存在しえなかった。
太陽は天の川銀河の中心からかなり離れた軌道を回転している。もし、もっと中心部近くに太陽が存在していたならば、銀河中心に存在する巨大質量ブラックホールからの影響を受ける。そこは無数の恒星が激しく入り乱れる空間なので、現在の地球のような穏やかな惑星が存在することは難しい。万が一、今のように地球が存在していたとしても強烈なγ線が降り注ぐ世界なので生命体は存在しえなかっただろう。
太陽の大きさもこれまた絶妙である。これ以上質量が大きい恒星は寿命が短くてとっくの昔に寿命が尽き爆発していた。逆に質量が小さいと8つの惑星を繋ぎ止めておくことができなかった。地球もはるか遠い軌道を周回することになって今のような恵の光を受けられなかった。
地球の位置もここしかないという場所にある。今より内側の水星や金星の軌道を回っていたならば、太陽に近いため太陽光エネルギーが膨大すぎるので、大気はすべて蒸発して灼熱の不毛の地になっていった。一方、火星以遠の遠い軌道を回っていた場合には、極寒の惑星となり液体の水が存在できない。やはり知的生命体の生存は困難と思われる。
さらに、私たちの快適な生活は他の天体の協力なしには成立しない。まずは図抜けて大きな兄弟、木星が強力なガードマン役を果たしている。もう少し質量が大きければ恒星になっていた巨大惑星、木星の巨大質量が周辺から地球の軌道に飛び込んでくる小惑星や彗星から地球を守ってくれている。木星がなければ地球は今頃クレーターだらけになっているだろう。
月の存在も大きい。月は45億年前に火星ほどの大きさの天体が原始地球に衝突した際の飛散物質が集積してできたとされる。月の重力による潮汐力が海を撹拌することによって海の深くまで酸素が溶け込む。月は生命の誕生に重要な役割を果たしたと考えられる。現在も月がなければ穏やかな地球環境は保たれていないだろう。
こういった数々の幸運の積み重ねがなければ今のような銀河、恒星、地球、原子は存在できなかった。当然ながら私たち人間など出現できるはずもなかった。今の宇宙があるということは字句通り天文学的な確率の幸運による。
誰しもが、私たちの宇宙のこの奇跡とも言える絶妙のバランスがどうして生み出されたのだろうという疑問を持つ。そこで登場するのが創造論である。すなわち、宇宙や生命などの起源を創世記に書かれた「創造なる神」に求める。天地万物すべての物が全知全能の神によってデザインされて作られたとするものだ。
最近は創造主を神と呼ばず、未知の知性ある存在(宇宙意思?)とする仮説もある(インテリジェント・デザイン)。しかし、両者の違いは絶対的な存在を神と呼ぶか否かの違いに過ぎない。
これに対する唯物論的な考え方が「人間原理」だ。人間原理とは、「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間が存在しえず、したがって宇宙そのものを観測することができないから」という論理。
もし、宇宙が今のような絶妙なバランスで生まれなければ、人間のような知的生命体は生まれない。だから、もしそのような宇宙があったとしても、観測する者がいないのだから、宇宙の法則や定数を論じること自体あり得ないということになる。

この哲学的な領域の議論は簡単に決着がつかない。最後には信仰の問題になるから、両者の議論はかみ合わず、どこまでも平行線を辿る。
無信心な私はどちらかというと人間原理に傾く。しかし、この人間原理にも多くの疑問はある。まず、この宇宙と違った宇宙には知的生命体が存在しないとは断定できない。そもそも知的生命体の定義が定まっていないのだから、人間型の知的生命体の代表と考えることすら不当と言える。もしかすると私たちが想像もつかない組成、形の生命体が宇宙の真理を突きとめているかもしれない。
無限の数の宇宙があり、この宇宙はその中でたまたま私たちの生存に適したパラメータを持った稀有な宇宙なのかもしれない。または、この宇宙は私たちが生存できるように巧妙にデザインされた唯一の宇宙なのかもしれない。いずれにせよ、私たちが自分という意識を持って生存していることは筆舌に尽くしがたい奇跡なのだ。簡単に「死んでしまいたい」などと言ってほしくない。
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*反物質:質量とスピンが全く同じで、構成される素粒子の電化などが全く逆の性質を持つ反粒子によって構成される物質。たとえば電子はマイナスの電荷を持つが反電子(陽電子)はプラスの電荷を持つ。中性子はクォークから構成されるが、反中性子は反クォークでできている。

今再び大本営

今年も66回目の終戦記念日を迎えた。毎年この頃になると第二次世界大戦にまつわるドキュメンタリー放送を目にすることになる。物心ついてから50年以上、ポツダム宣言受諾を告げる天皇の詔勅、広島、長崎への原爆投下、真珠湾攻撃などの場面を繰り返し見せられてきた。
戦時中の国内の様子を伝える一連の報道を見ていると、必ず耳にするのが「大本営発表」という文言だ。ラジオから現在の北朝鮮国営放送のアナウンサーとそっくりの、もったいぶった口調で「大本営発表、我が帝国陸軍は・・・・・」という声が流れる。
大本営とは日清戦争から大東和戦争にかけての戦時中あるいは事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。最高統帥権を持つ天皇陛下の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令、大本営海軍部命令)として発令する、最高司令部としての機能を持っていた。
組織の実態は天皇、参謀総長、軍令部総長・参謀次長・軍令部次長・参謀本部第1部長(作戦部長)・軍令部第1部長・参謀本部作戦課長・軍令部作戦課長であり、内閣総理大臣や外務大臣などの文官は構成メンバーではなかった。陸軍大臣と海軍大臣は会議に列席するものの発言権はなかった。
ここから発せられる大本営発表は天皇の認める発表だから、一片の疑義を差し挟むことのできない国民への公式メッセージと言える。ところが先ほど示した組織から分かる通り、実態は文民統制をはずれた軍の組織であるから、軍の思惑に沿った情報操作がなされた。軍に都合の悪い情報は隠蔽され、軍を賛美する情報が捏造されたのだ。
昭和18年に入り、ニューギア、ガダルカナル島での壊滅的敗戦、山本五十六の戦死など、戦線に暗雲が立ち込めてからの大本営発表は、さながら嘘で塗り固められた雪達磨であった。軍部の暴走を統制すべき立法府は大連立である大政翼賛会の一党独裁となっていたために機能不全であった。マスコミ(新聞)も軍部の圧力によって監視機能を失い大本営発表を唯唯諾諾と流し続けた。
大がせねたである大本営発表を国民はどう受け取ったのであろう。インターネットが発達した現在と違って、他の情報源がほとんどなかったのだから、多くの国民は真に受けたのではないだろうか。それでも、次第に生活物資が欠乏し、周囲に名誉の戦死がるいるいと築かれていけば、眉に唾する動きも出てきたに違いない。しかし、人間とは悲惨な将来像からは目を背けたいものだ。大本営発表が事実そのものではないと感じつつも、自ら受け入れたのだと推察する。こうして、私たち国民が沖縄玉砕、広島・長崎大虐殺に至るまで、「天皇陛下万歳」と叫びながら大量の若者を戦場へ送り込んでいった。

私は東日本大震災以来、毎日、気象庁の地震情報と文部科学省の環境放射線情報に目を通している。最近、環境放射能水準値にいやな動きがある。漸減して一定の値を推移していた放射能値がここ10日ほど不規則な上昇値を示している。今、福島原発で何か起きているに違いないと考えている。
ところが、政府はおろかマスコミもこの放射能の不安定な動きには何ら言及していない。考えてみれば、福島原発事故の発生当初から、その詳細を報じた新聞、テレビは一つもなく、深刻なその実態は外国のメディアの方が事細かに報じていた。日本国民は「知らぬは亭主ばかりなり」を地で行く間抜けな存在であった。
重大事故が明らかになった後も、普段は人の寝室にまで押し掛けて強引な取材をする連中が、枝野官房長官と東電の会見、遠巻きに何キロも離れた地点からの映像を流すばかり。決死の現場ルポを試みる者は一社もなかった。最近に至っては事故現場の状況すら報じず、ダメ菅に振り回される我欲の亡者たちの政局ばかり垂れ流している。
要らぬパニックを引き起こさぬよう、ある程度の情報の取捨選択は必要であろう、しかし国民が自己責任で行動するために必要な情報を時々刻々と提供することは国およびマスコミの存在を問われるべき責務ではなかろうか。

高濃度放射能汚染地域およびその住民に対する今後の対応についての政府見解は全くなされていない。除染という言葉に甘い幻想を抱かせているが、除染はごく限られた部分について可能な手段である。
ところが、東京都に匹敵するような広大な地域を除染することなど物理的に不可能なことは火を見るより明らかである。なぜならば、河畔や山林の方が小学校のグランウンドなどよりもはるかに汚染度が高い。住民が恒久的に安全に暮らしていける環境を提供するとなれば、広大な地域のすべての表土を削り、さらには一木一草すべて根こそぎ剥ぎ取らなければならない。はたしてそんなことができるのだろうか。
経済的な問題だけではなく、発生する膨大な汚染物をどこに保管すればよいのか。さらには、そういった問題をクリアしたとして、草も木もない丸裸の土地に果して人が住めるのであろうか。
国民の生命を重んじるならば結局、高濃度汚染地域は数十年間立ち入り禁止区域とし、そこに住む住民を移住させる以外に方法はない。狭い国土の我が国で、この移住政策は困難を極めると思う。しかし、遠い将来の我が国を考えたならば、どれほど不興を買い、一時的な国力低下を招いたとしても、苦渋の決断をしなければならない。敗戦が明らかになった当時の日本と同じように。
不都合な決断は、その時期が遅れれば遅れるほど多くの犠牲者を出すことは先の戦争で十分に学んだはずである。
政府が大本営化し、立法府は大政翼賛会へと舵を切りつつある。マスコミも暴力的な弾圧を受けているわけでもないのに機能停止。まさに「いつか来た道」なのだ。我が国がこのまま同じ轍を踏むならば、その先は破滅への道しかないだろう。

蔓延する科学教原理主義

ラジオで気象庁の方から次のような話を聞いたことがある。「初夏や晩秋になるとよく『もう寒い日はないか』とか『もう夏服は片付けてもいいでしょうか』といったお問い合わせがあります。こういった時には『まだ寒い日はあるでしょう。』『まだ衣替えはお待ちになった方がいいです。』と答えるのが最良です。」「科学的な根拠はないが、下手に科学的なデータに基づいた予測よりも苦情の件数が驚くほど少ないのです。」
なぜ、莫大な研究費をかけた科学的予測よりも、その場しのぎのいい加減な返事の方がよい成果を得られるのだろうか。その種明かしはこういうことである。つまり、この手の問い合わせがあるうちは、必ずまだ時たま寒い日や暑い日がある。季節が安定すると問い合わせ自体がなくなる。だから、問い合わせに対しては「まだまだ」と答えておけば大方外れないということになる。
こういうやり方はペテンだと怒る方がいるかもしれないが、決してペテンではない。なぜならば、気象学に限らず科学とはすべて過去のデータを基に作られた仮説である。したがって過去の出来事を合理的に説明することはできても未来を正確に予測することはできないからだ。

巨大地震とそれに伴う大津波が東北、関東の大平洋沿岸地域に広範囲に深刻な被害をもたらした今回の東日本大震災。この震災にまつわる記述には必ず「1000年に一度の」とか「未曾有の」といったことばを目にする。
麻生さんがリーマンショックに「未曾有の出来事」と使ってから(読み方は間違ったが)、いろいろな場面で安易に「未曾有の」の冠が貼られるようになった。が、今回の震災は本物中の本物の「未曾有の出来事」である。
世界の津波対策の模範とされていた田老町の高さ10mの防潮堤も破壊され、長らく安全のシンボルであった陸前高田の7万本の松も1本を残して根こそぎ引き倒された。さらにこの巨大地震と大津波が前代未聞の原子炉事故を引き起こした。福島原発事故は数万の人から故郷を奪い、未だに放射性物質を漏出し続けている。政府の大本営発表とは裏腹に安定終結の目途は立っていない。いずれをとっても想定を超える規模の超大災害である。

当初はただ悲しみに打ちひしがれていた被災民だが、5ヶ月を過ぎて自らが失ったものの大きさをあらためて認識し、そのやるせない怒りの矛先を探し始めた。A級戦犯として東京電力と政府がきびしく糾弾されるのは至極当然と言える。原因が天災にあったとはいえ、その後の対応に重大な瑕疵があったことは否めない。まずは歴代経営陣、株主、債権者が私財を投げ打ってでもできる限りの保証をするべきである。次に原子力行政関係者、権力におもねって地位と財産を築いた御用学者もその責を負うべきと考える。
実際、各地で損害賠償を求める動きが活発化している。しかし、先日報道された損害賠償請求には違和感を覚えた。それは、送迎バスが津波に巻き込まれ、園児5名が亡くなった事件に対する民事訴訟請求だ。一部の遺族が送迎バスによる送り届けによって愛児が死亡したとして幼稚園に対して2億を超える賠償を求めるものだ。
結果として幼稚園よりも低い道路を走ったために津波に巻き込まれたのは間違いない。しかし、園児を殺そうとしてバスに乗せたわけではない。一刻も早く、心配している家族のもとに園児を送り届けようとしたが、予想を超える津波によって不幸な結果となったわけである。津波に対する判断を誤ったことを過失と責められるならば、善意の行動を躊躇せざるを得なくなる。数年前の福島県立大野病院産婦人科医逮捕事件に通ずる不快を感じてしまった。

大津波をどこまで予見できたかは議論が尽きないが、どんな方法をとったとしても予想はあくまで予想。100%的中するわけがない。そもそも過去は事実として記憶されるが、未来は全くの白紙だ。それが時間という次元の不可思議かつ理不尽な性質と言える。しかし、人間は不確定な未来を受け入れることができない。何らかの確約を求めて止まない。
言い換えれば、人間の最大かつ永遠の欲求は未来を予測することにある。宗教も科学もここから出発したが、人間は未だにこの要求を満足させる手段を持たない。
現在国民の最大の関心事は原発から漏出した放射性物質による長期被曝の健康被害であろう。多くの国民が許容量線量を求めている。これも、未来予測の要求と言える。関係機関はその欲求を満足させるべく右往左往しているが、明確な値を算出できるわけがない。
前回のコラムで述べたとおり、人類は低線量被曝の人体への長期影響は十分な知見を持っていない。また、放射能の細胞毒性には閾値が存在しない。どれほど浴びれば致死的な影響が出るかについては予測できたとしても、ここまでなら安全ということは言えないのだ。できる限り被曝しない方がよいと言うのが正直な答えなのだ。
それでも、人は何らかの拠り所を求めて値を示せという。言い換えれば、人間はどうしても将来に確約を求めたがるのだ。この先は不確定であるという現実をあるがままに受け入れることが恐いのである。この不安を解消するためにある者は神を信じ、またある者は科学に救いを求める。
繰り返してのべるが、科学は過去の出来事を合理的に説明することはできても未来を正確に予測することはできない。深く科学に携わった者はこの科学の限界を知っている。しかし、一知半解の自称インテリは、宗教を非科学的と軽蔑するが、実は自分自身が科学教信者であることに気付かない。本当は不確かことでも、数字になってさえいれば信用する。逆に、数字に表せない事実からは目をそむける。数字にすがり、数字に踊らされるのだ。そして、最近はこの科学原理主義が蔓延しているように感ずる。
科学を未来透視の目的で使う愚かな科学教原理主義に陥ることには十分に気をつけたいものだ。

原子力に翻弄される日本

1945年8月6日午前8時15分、広島市上空1万メートルを高高度飛行してきたB29、エノラ・ゲイ号から巨大爆弾一発が放たれた。これが人類史上初めて実用された核爆弾リトルボーイ投下の瞬間である。
43秒後、上空約600メートルで炸裂した悪魔の申し子が広島市を阿鼻叫喚の巷と化した。14万の命を奪った未曽有の惨劇はたった1発の爆弾によるものである。しかも計算によると50キログラム搭載されていたウラン235のうち実際に核分裂反応を起こしたのは1キログラムに過ぎない。
1キログラムの核分裂反応が放出したエネルギーは60兆ジュール。TNT火薬換算で15,000トンに相当する。B29の最大積載量が5トンだったからB29、3000機による空襲に匹敵した。東京大空襲はB29、344機で行われたから、東京大空襲9回分のエネルギーが人口10分の1の都市に一気に放出されたことになる。しかも通常爆弾と違って爆発後も長期間残留放射能によって救援活動に入った人、胎児にも致死的な被害を与え続けた。
米国では原爆投下が終戦を早めて戦死者増加を食い止めたという詭弁を弄する者が多いが、この暴挙が彼らから見た劣等民族を材料にした、壮大な科学実験であったことに疑う余地がない。なぜならば3日後、長崎に投下された核爆弾は、リトルボーイとは核子の異なるプルトニウム型のファットマンであったからだ。
人を材料にした核爆弾投下実験の第2弾「ナガサキ」は広島惨劇の僅か三日後に挙行された。午前11時2分、長崎中心部から3キロメートル外れた市街地の上空約500メートルで爆発した「ファットマン」7万4千人の命を奪い町の三割以上を破壊した。
ところでこの長崎が小倉の身代わりであったことはあまり知られていない。B29「ボックスカー」は投下目標である小倉陸軍造兵廠の確認に失敗。その後2度にわたって爆撃を試みるも成功せず燃料が少なくなり、小倉を離脱し第2目標であった長崎へ向かった。すでに予備燃料で飛行していたボックスカーは、もし一度の爆撃航程で長崎への投下を果たせない場合には、爆撃を断念して爆弾を太平洋上に投棄しなければならなかった。
当時長崎は雲に覆われていて帰還やむなしと思われた矢先、本来の目標地点より北側に一瞬雲の切れ間から長崎市街が顔を覗かせた。悪魔の導きと言うよりほかない。
ファットマンはプルトニウム型核爆弾でその破壊力はTNT火薬換算で2万2千トン。リトルボーイの1.5倍の威力だ。自然界に存在しないプルトニウム元素を用いた核爆弾の開発計画の成果を試す残酷非道な科学実験であった。プルトニウムは放射能によって人を傷害するにとどまらず、化学的にも発癌性を持っている。プルトニウム爆弾が汚い爆弾と呼ばれる所以だ。
広島、長崎で行われた世紀の人体実験は実験者にとって予想以上の成果をもたらした。その圧倒的な破壊力を見た戦勝国はこぞって核開発に血道をあげることになる。その結果、冷戦末期に米ソ合わせて、地球上の人類を何十回も絶滅することができるほどの核弾頭を保有するに至った。晩年、アインシュタインはこう言った。「第三次世界大戦はどう戦われるでしょうか。わたしにはわかりません。しかし、第四次大戦ならわかります。石と棒を使って戦われることでしょう。」

世界で唯一の被爆国である日本が原子力発電に依存していったのには多くの理由がある。一つは我が国が原油や天然ガスなどの化石燃料資源を持っていないこと。第二には国防上の理由から非核三原則を謳いながら、いつでも核武装できるだけの核物質と技術を保有すること。第三には自国の原子炉製造メーカーの売り上げを伸ばす目的でアメリカ政府からの圧力があった。などなどである。
いずれにせよ、原子力爆弾で多くの国民の命を奪われた我が国が、爆弾を投下した張本人の利益のために原子炉を増やし続けた。そして、たとえそのきっかけが天災であったとしても、その原子炉によって再び多くの国民の命が危険にさらされているという事実は笑えないブラックユーモアではなかろうか。
今取りざたされている放射線障害についての基礎データは広島、長崎の原爆とチェルノブイリ原発事故で得られたものが大半である。原爆の急激な大量被曝による健康被害は広島、長崎で多くのことが分かっている。しかし、これから福島で起こる長期間にわたる低線量被曝が人体にいかなる弊害を生むのかについては、誰も正確な予測を立てられない。むしろ多くの国が今後の日本人の健康状態がどのような変化をきたすのか興味深く見つめているというのが現実なのだ。
つまり、日本は望まずして、爆弾による大量被曝、原子炉事故による低線量長期間被曝、両方の実験台となった。原子力に翻弄され続ける国と言えよう。

違反クラブ

しばしば自分の愚かさを自覚する場面がある。その1つがゴルフ道具の広告を見る時だ。これまでにいやというほど裏切られ続けたにもかかわらず、あいかわらず「飛んで曲がらないクラブ」という謳い文句に目がいってしまうからだ。
私は何年ゴルフをやってもいっこうにまともなスコアが出せない。原因が己の技量にあるということは十分承知している。まっとうな人間ならば、自分に才能がないと知れば、毎日走り込むとか、練習場に日参して手に豆ができるくらい球を打ちこむのだろう。ところが、根っからの怠け者にできている私は、練習どころか日長愛猫たちと一緒にごろごろしてばかりである。これではゴルフの上達を望むべくもない。
ところが始末が悪いことに欲望だけは人一倍大きいときている。ベストスコア更新の未練を断ち切れないのだ。では労せずしてこの欲望を満足するためにはいったいどうすればよいのだろうか。いろいろ考えてみたが、思いつくアイデアは皆重大なルール違反ばかり。ルールやマナーに違反しないとなると道具に頼るしかない。というわけで通販の怪しげな謳い文句に目を奪われてしまうことになる。
「飛んで曲がらず、スコアがアップ」それなのにこの値段。そんなうまい話があるはずがないと知りつつも、今度こそというはかない夢にすがって一度ならず買ってしまうことになる。こうして購入しては私をがっかりさせた品は数えきれない。その中の極めつけは「ハンマーリキッド」と名付けられたドライバーだ。
ゴルフクラブでボールを打つ瞬間を詳しく分析すると、クラブフェースがボールに当たった時、作用・反作用の法則でほんの一瞬だけクラブフェースが凹む。そして金属のもつ反発力が元に戻ろうとして膨らんでボールをはじき出す。
キャッチコピーによるとハンマーリキッドはクラブヘッドの中に液体が仕込まれている。そこで先ほどのクラブフェースがたわんで戻る際に、中に仕込まれた液体がフェース裏面に直撃してより強くボールを遠くへ弾き飛ばすと言う。そしてその圧力は驚くなかれ、なんと1平方センチメーター当たり1トンにも及ぶとあるのだ。
こうなるともう「1トン」という数字だけが私の頭の中を駆け巡る。なぜ1トンと計算できるのか、なぜクラブフェースがボールを押し返す絶妙のタイミングでフェース裏面に液体が衝突するのか、そういった疑問は「1トン」という魔法の言葉にかき消されてしまう。正常な思考回路は完全に停止して、巨大な大砲が小さなゴルフボールを吹き飛ばすイメージだけが浮かんで焼きついてしまった。早速購入したが、結果はいつも通り、180から200ヤード先の左右の林や崖下に打ち込むばかり。「今度こそは」の期待の秘密兵器も、ほどなく物置行きとなった。
残念ではあるが、期待通りの結果が出たとしてもクラブヘッドの中に怪しげなものを入れることは重大な規則違反だから、本来使用禁止であり、物置行きは逃れられなかっただろう。しかも、その後この手のクラブが売り出されたと言う話を聞かないから、「1トンの水」の効用はさほどではなかったようだ。

才能も向上心もなく、秘密兵器も駄目だとなると、ゴルフを止めるのが最善策である。それなのになぜ私が貴重な休日を性懲りもなくゴルフに費やしているのかと言えば、私にとってのゴルフとは家族や気のおけない仲間と楽しい一日を過ごす手段だからにほかならない。
ゴルフは最大4名で一緒にプレイする。スムースに回っても18ホールで4~5時間、食事に30~40分かかるから、合計6時間近くを一緒に過ごすことになる。私はこの間のたわいない会話がとても楽しい。中にはへぼと口をきいたらその日のスコアを崩すばかりか、その後のゴルフ人生が台無しになるとばかりに、緘黙を保ち、ゴルフだけに集中する方もいるが、たいていの人はあーだこーだとおしゃべりに花が咲く。
話題はさまざまで、なでしこジャパン、中国の列車穴埋め作業からパスタの美味しい店、猫自慢までジャンルを問わないが、政治の話はできるだけ避けることにしている。残りの時間を気まずい雰囲気で過ごす可能性があるからだ。
初対面の人と一緒の時にはその人の背景を全く知らないので、話題の選択が難しくなる。ゴルフの腕前を褒めておけばよさそうだが、そうでもない。「ナイスショット!」と掛け声をかけたら怒りだす人もいるからだ。「俺様の腕はこんなものではない。これきしの当たりを俺のベストショットと思われるのは大変心外である。」ということらしい。
そういう気難しい人も必ず大受けしてその後この話題で持ちきりになること間違いなしの話がある。但し、男だけのパーティに限るが。

「うちの女房は最新のドライバー。高反発、低重心、デカヘッド。」
数秒絶たずして大笑いになる。それから必ず各自の女房自慢が始まる。
「○○さんの奥さんは低重心、デカヘッドではないでしょ。でも反発係数の高さはよくわかる。同情するよ」
「うちのやつこのところ贅肉が付いて一層低重心になったよ」
「うちのもよせばいいのにかつらなんか付けたから超デカヘッド」
「うちの家内の反発係数は○○さんちに、ひけをとらないよ。一言文句言ったら最低10言は返ってくるから、一切逆らわないことにしてるよ」
ゴルフのドライバーはあまり飛びすぎるということで、数年前に規制がかかって反発係数とヘッド容量に限度が設けられ、反発係数比べとヘッドの大きさ競争は終わった。
一方世の女性陣はと言えば、ダイエット、エステに勤しんでスリムになり、小顔になった方が多いが、反発力だけはますます強くなっているように思う。私たち男性が太刀打ちできる領域をはるかに超えてしまった感がある。
いまやどの家庭にも規則破りの違反ドライバーが備わっているのではなかろうか。
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