「お箸を持つ手が右手、お茶碗を持つ手は左手。」小さい頃、親からこうして左右の区別を教わった。その後の生活の中で常に左右の識別を要求され、訓練されてきた。したがって、右と左の識別は私たちにとって簡単な作業と感じている。だから、何も分からない状態を「右も左も分からない状態」といった表現で表わすくらい当たり前のこととされている。ところが、実際には右と左の認識はそれほど簡単ではないのだ。
大脳優位半球の頭頂葉と側頭葉の境界近くの角回と縁上回という部分が障害された時にみられるゲルストマン症候群(Gerstmann syndrome)では失書(自発的に字を書くことや書き取りができない)、失算(暗算も筆算もできない)、手指失認(自分の指の識別ができない)の他に左右失認(左右の識別ができない)が認められる。
昔、まだカーナビなどない時代、助手席に乗せた後輩I君が右手で右方向を指し示しながら「先生、そこを左」、逆に、左手で左を示しながら「次の角を右」と指示する道案内に大変混乱した想い出がある。
I君は人差し指と小指の識別はできるし読み書きそろばんも優秀である。今では大学で教授を務めているからゲルストマン症候群ではない。つまり、病気ではなくとも左右識別が苦手な人がいることが分かる。
そもそも、右と左という概念自体相当高度な抽象的概念である。3次元のうちまず、上下と前後が決まらないと左右の定義はできない。なぜならば上下は重力の方向、前後は自己の進行方向という明確な物理指標と直結しているのに対して、左右にはこのような明瞭な価値の違いが存在しないために一義的に決定できないし、混乱しやすい。
人の場合には身体がほぼ左右対称だが心臓の位置や利き手など僅かな違いがある。そのためにそういった特徴を利用して左右を確認することが多いが、そういった条件を利用できず、上下と進行方向がはっきりしない宇宙空間のような環境では左右を決めることはかなり難しい。
私たちは身体が完全に対称でないから左右を容易に識別できるのだが、一方、私たちの身体の不完全な対称性によって混乱することもある。もっとも身近な混乱が鏡像の問題である。「鏡に映る像はなぜ上下は正しいのに左右は逆になるのか?」
このなぞなぞに近い疑問は、分かったようなつもりになっている極めて日常的な事象が、実はよく分かっていないことを示す格好の教材であろう。すぐに正解に至る人は滅多にいない。しばしば行き着く答えが「目が左右に並んでいるから」だ。しかし、片目で見ても鏡に映る像は同じだから正解ではない。
実はこの問題は、問いかけ自体がトリックなのだ。鏡の前に立って自分の鏡像を見ながら前に進み、鏡に身を寄せてみよう。頭は頭、右手は右手、実際の身体と鏡に映る己の身体とはぴったりと一致する。つまり鏡像で上下方向と左右方向とには何ら差異はないのである。実際には鏡はどちらの方向にも平等に像を映していて、左右だけ逆といった不思議なことは起きていないのだ。
左右が逆になっているかのような疑問が起きるのは、先ほど述べた私たちの身体の不完全な対称性にある。上下は重力を感じることと、頭と足の形態が明らかに違うために錯覚しようがないのに対して、左右はおおむね対称であるために自分の姿を、その位置に同じ向きに立った自分自身に重ね合わせようとする。
完全に左右対称であるならば自分の身体と鏡像とは完全に重なるので「左右が逆」といった違和感が生じない。ところが実際には対称でないために左手と右手が正確に重ならない。そこで左右が逆になったかのように錯覚するのだ。
左右の非対称性は人間の身体に限らず、自然界に広く見られる。もっとも身近な例は両眼が顔の片側に偏在しているヒラメやカレイであろう。「左ヒラメに右カレイ」と言われるが、なぜヒラメが左を選び、カレイは右なのかは不明である。巻貝の殻の巻き方は種類によって異なる。カタツムリは右巻きだがキセルガイは左巻き。
電流と磁場と力の関係を表すフレミングの法則で分かるようにこういった物理指標の向きも左右決まっている。科学物質の立体構造を見る場合に左旋性の物(L型)と右旋性の物(D型)が存在する。ところが私たち生物にとって大事なアミノ酸はどういうわけかL型しか利用できない。
台風、ハリケーン、サイクロンといった熱帯低気圧の渦の巻き方は北半球で発生したものは左巻き(反時計回り)、南半球で発生したものは右回り(時計回り)だ。この左右の決定は地球の自転で生じるコリオリの力による。
「左、右」。このごく当たり前と思っている現象も実は奥深い。実は世の中には当たり前の現象はそう多くない。不思議なことばかりなのである。それなのに疑問を感じず、当たり前と感じるのは、その物事を深く考えようとしないからである。
今の世は、ニュース解説員のように、博識で何にでも簡単に答えを出す人が尊敬されて、本人も自分のことを頭がよいと勘違いしているきらいがある。しかし、物識りでなんでも当たり前と感じる人は、実は思考能力が低い人なのかもしれない。
くず屋の清兵衛はある日、千代田卜斎という浪人から古びた仏像を二百文で引き取り、高木三太夫という若侍に三百文で売った。三太夫がその仏像を磨いていると中から五十両の小判が出てきてびっくり。
三太夫は翌日、清兵衛の元へ五十両を持っていく。「それがしは小判ではなく、仏像を買い求めたのであるから、この小判を受け取るわけには参らぬ」とその金を元の持ち主に返すよう清兵衛に言いつけた。
清兵衛は早速、卜斎に事の次第を伝えるが、卜斎は「それがしは仏像一体を丸ごと売ったのであるから、その中にあるものもすべて買い取った相手の者である。」「たまたまその中に小判があったからといって受け取るわけにはいかん。」こちらも受け取りを拒否。
困り果てた清兵衛は知恵者である長屋の大家に相談し、結果、五十両を清兵衛、卜斎、三太夫の三人で分けることにした。ところが、卜斎はそれでは申し訳ないからと、自分が愛用していた茶碗を三太夫へ譲ると申し出た。一見すると古びた茶碗で、どう磨いても小判など出てきそうもないので、三太夫も安心してその茶碗を受け取った。
ところがこの茶碗が三太夫の主君の目にとまるところとなった。「ややっ。これは幻の名器、井戸の茶碗に違いない。」と三百両で買い上げられた。驚いた三太夫は再び清兵衛を呼び、卜斎に半分の百五十両を届けさせる。
卜斎は三太夫の正直さに大いに感心する。そして三太夫がまだ独身であることを知って、町でも評判の自分の愛娘を娶ってくれるように頼む。
この願ってもない提案を清兵衛から聴かされた三太夫は、「それがしのようなものが卜斎殿の愛娘をもらってよいものか?」と恐縮すると、清兵衛が「いえいえ、卜斎さんからの是非にとのお話です。それに娘さんはなかなかの美人。磨けばもっと美しくなるに違いありません」。すると三太夫、困った顔をして「いや、磨くのはよそう。また小判が出てくるといけないから。」
落語、「井戸の茶碗」の一席である。
落語には腹を抱えて笑う話。ほろりと涙を誘う話。笑いの中にぞっとする恐ろしさを漂わせた話などがある。この「井戸の茶碗」はほっと心を癒される話だ。なぜほっとさせられるかというと、登場人物が全員正直で欲がないからではなかろうか。
現在ならば、古物業者が2000円で仕入れたものを3000円では売るまい。少なくとも怪しげなお墨付きを付けて5倍の値段をつけるのではないか。小判など出てきたならば、訴訟あるいは傷害事件に発展すること間違いなし。
金がすべての今の世では正直には馬鹿が付き、欲がない者は負け犬と呼ばれる。他人の目をかすめて上手に利益をくすねとる者が勝ち組と呼ばれ、もてはやされる。
しかし金にしか価値を見いだせないものは10万円手に入れると100万円欲しくなる。100万円手に入れると1000万円を望む。金は麻薬のようなもの。得れば得るほどさらに多くを求める。その飽くなき欲求は渇いた喉に塩水を注ぎ込むようなものだ。いくら飲んでも渇きは治まらない。治まるどころかより一層の渇きに苦しむ。物欲の亡者と化すのだ。
野田新総理のどじょう演説で一躍脚光を浴びた相田みつをだが、実は以前から多くのファンがいる。特にここ数年愛読者が急増している。その理由は彼の詩が「井戸の茶碗」のような無欲の幸せ、正直さ、誠実さ、潔さを詩っているからだと思う。世の中が拝金主義にまみれるほど、人は日々の行為と対極にある相田の詩や井戸の茶碗を求めるのかもしれない。
野田新総理が民主党代表に選出直後の演説で「政権運営とは雪の坂道で雪だるまを皆で押し上げていくようなものだ」と述べた。全党員が恩讐を超え、はしゃぐことなく、受けを狙うことなく、一致団結して汗をかこうと訴えたのである。
これまでの民主党政権では議員たちが政権運営という本来の目的をそっちのけに個人的な受けを狙った発言をしてきた。そういう勝手な行為が国政の大きな障害となっていた。それに対する警鐘を放ったのだ。それにもかかわらず、首相就任演説もなされぬ前にまたもや勘違い女がフライングした。
小宮山厚労省が就任記者会見で述べた「煙草を700円ほどに値上げすべき」という発言。何よりもまず、各省庁が一丸となって震災の復旧、復興に取り組もうという矢先に、いかにも唐突な煙草増税発言であった。愛煙家の野田総理、藤村官房長官は寝耳に水であったらしくこれを聞いて唖然。安住財務相は、課税は自分が所管すると不快感を露わにした。発足冒頭から閣内の足並み不一致を露呈する結果となった。
思わぬ波紋を呼んで、さすがに慌てたのか「煙草の増税は税収増加が目的ではなく、国民の健康増進が目的である。であるから所管大臣の自分はあくまでも煙草税アップを訴え続けていく。」と己のプライドも気付付ずにうまく取り繕ったつもりだったようだ。しかし、そんなへ理屈では自分が多いなる勘違い女であることを取り繕えるものではない。
煙草の健康問題がこの状況下の就任演説で取り上げなければならない問題なのか。厚労省が何を差し置いても全力で取り組まなければならないのは、いっこうに改善の兆しが見えない雇用問題であり、福島原発事故に端を欲した放射線障害ではなかろうか。
そんなことさえ分からないほど馬鹿ではないだろうから、なにがなんでも煙草に言及したかった理由があるに違いない。そう。この方名うての嫌煙家なのだ。顔の人生で愛煙家の男によほどの恨みがあるのかもしれない。江戸の敵を長崎で。厚労省に就任した暁には必ず喫煙撲滅を果たそうと臥薪嘗胆、ずっと考えていたに違いない。そうでなければ、新内閣の結束に寄せていた国民の期待に冷や水を浴びせるような馬鹿な真似はしなかったはずだ。
私がなぜ小宮山女史の言葉にこれほど激昂しているのか。言うまでもなく、私が愛煙家だからである。ただ、私たちスモーカーはこのところ喫煙に対するバッシングには慣れっこになっているから、ちょっとやそっとではこれほど反応しない。はらわたが煮えくりかえる原因はこの女の物言いにある。
口からきつい言葉が飛び出しても眼差しに優しさがあるとそれは辛口のユーモアと取られて憎まれない。反対にどんな甘言も冷酷な目つきの下では耳に心地よさは残らない。「目は口ほどに物を言う」と言うが、まことにコミュニケーションの場において目から伝わる情報は極めて大きい。
眼は感覚器官であり情報を受け取るのが役目である。本来情報を発信する器官ではない。それにもかかわらず眼差しから相手の感情、意志、知性を汲み取れるのは不思議なことである。この理由の一つは、言葉は脳神経に支配されてはいるが所詮筋肉のなせる業であるのに対して目は脳の一部が直接露出していることが関係するのではなかろうか。
舌は脳の様々な部分から複雑な統御を受けて抑制されている。しかも舌は己のへらへら動く姿は口中に隠している。こう考えると舌は初めから嘘を吐くためにある装置と言える。
「酒入れば舌出ず」。酒の上の失言と言われるが実は酒によって抑制が解かれて初めて本音が吐露されるのである。一方、「目は心の鏡」と言われるように目は嘘を吐けない。相手を見ようとすると脳そのものである自分自身を晒さなければならないからだ。だから、コラム「正直村と嘘つき村」で書いたように、私は目が笑わず口元だけ笑っている人間をまったく信用しない。
小宮山女史はアナウンサー出身だけあっていつも笑顔が絶えない。垂れ目なこともあってとても柔和な雰囲気を醸し出している。しかしいくら垂れ目でもその目は笑っていない。冷やかに相手を軽蔑している眼差しである。
「私はNHKで論説委員をやってたのだから頭がよいのよ。」「お馬鹿さんな貴方たちによく教えてあげるから言うことお聴きなさい。」「煙草が吸いたければ700円出せばいいのよ。でも貴方の収入でそれだけの余裕あるかしら。」「でもお金がなくて幸せなのよ、その方が貴方のためなんだから」「貴方のためなのよ、お馬鹿さん。」上から目線極まりない。
小宮山に限らず、貴方のためだと言いながら人の嫌がることをやる奴がいる。この手の連中は最初から悪漢面して嫌がらせをやる奴よりもよほどたちが悪い。宗教原理主義者を見れば納得できるだろう。人を殴り殺しながら、「貴方のためだから」と言う。
小宮山女史の作り笑いを見ているうちに、昔観た、大竹しのぶ主演のドラマを思い出した。確か「ボランティア」と言うタイトルだったように思う。ある日無料で押しかけてきた家政婦が、幸せな家族の中にどんどん入り込んで、とうとうその一家を破滅させてしまうという話である。その中で大竹しのぶが途方に暮れる家族たちに要所要所で語りかける台詞が「ボランティアですから」だ。垂れ目の大竹が笑顔で言うだけに背筋がぞっとするほどシュールで怖かった。
さて野田総理。就任早々、放射能除去に加えて跳ね上がり除去にまで腐心しなければならないとはお気の毒と言うほかない。
下手の横好きと言えば私のゴルフの右に出るものはない。しかし、私の横好きはそう他人様に迷惑をかけていないと思う。スコアは惨憺たるものだが、スロープレイではないからだ。
したがって私のゴルフの被害者は同伴者3名に限られる。しかも、たいていの場合、一緒にいるのは出発点のティーグラウンドとゴールのグリーン上だけである。ティーショットを打った後、私は他のメンバーと別れて林の中、あるいは崖の下を行くことになるので、私の奇怪なスィングを目にすることは少ない。だから、同伴者は数時間の間リズムを狂わされる程度の被害で済む。 ところが、世の中には一人の下手の横好きのおかげで多数の人間が甚大な被害をこうむる場合がある。
江戸時代の話、ある大店の旦那が義太夫に凝っていた。ところが御多分にもれずこの旦那の義太夫はすこぶる下手。しかも、すぐに他人に語りたがる、迷惑この上ない下手の横好きであった。いつも聞かされる店の番頭、小僧、長屋の店子たちはその度に身体の具合を悪くするほどであった。だから、いつまた義太夫語りの集合がかかるかと戦々恐々としていた。
周囲のそんな思いを知ってか知らずか、旦那はまたも義太夫会を企画。最近集まりがよくないので酒や御馳走を山ほど用意させて準備万端、皆を呼びにやらせる。ところが、提灯屋は開店祝いの提灯を大量に発注されててんてこ舞い、金物や無尽の役回りだから出席しないわけにはいかない。小間物屋は女房が臨月なために辞退。鳶の頭は成田山へのお参りの約束、豆腐屋は法事に出す生揚げやがんもどきを沢山発注されて大忙し、と全員断られてしまった。それならば店の使用人たちに聞かせようとするが、全員仮病を使って聴こうとしない。
怒った旦那は長屋の住民は全員追い出し、店の者は全員くびにすると言いだした。そんなことされたら皆明日から生きていけない。一同観念して義太夫を聴く決意をした。
そこで一同集まって、どうやってあのとてつもない義太夫からの被害を最小限に食い止めるか頭をひねる。とても正気では聴いていられないので酒を浴び、さっさと酔っ払って寝てしまうに限るという結論に達した。
義太夫が始まると我先にと酒を煽る。あっという間に、へべれけに酒がまわった一同全員が眠りに着いた。やがて自己陶酔していた旦那も皆の居眠りに気付いて激怒するが、丁稚の定吉だけがしくしくと泣いている。自分の義太夫に感激したと思った旦那は機嫌を直して、どの演目に感動したのかと定吉に問い正す。これに対する定吉の返事は「みんなが寝ちゃったんで、あたいの寝床が無くなってしまったんです。」
5代目古今亭志ん生とその息子3代目古今亭志ん朝が得意とした落語、「寝床」の一席である。
「俺の義太夫を聴かなければ長屋を出ていけ」とよく似た台詞を最近耳にした。「俺の顔を見たくなければ法案を通せ」という菅直人の恫喝だ。下手な義太夫は店の奉公人と店子が涙を飲めば済むが、下手な総理大臣の被害は与野党国会議員たちだけでは済まない。彼ら以上に甚大な損害を被ったのは他ならぬ私たち国民である。殊に震災被災地の人々が無能な為政者のために被った被害は計り知れない。
下手な横好きと笑ってすますことができるのは趣味の話。政治は国の存亡がかかっているのだから下手にやってもらっては困る。上手でなければならない。しかるにこのところ、政治家の顔から自分たちが「国の存亡」にかかわっているという真剣さが伺えないのは嘆かわしい限りだ。
とは言うものの、好きこそものの上手なれという言葉もある。どんなことも最初から上手な人はいない。好きと言うと少し軽いが、これを成し遂げたいという志がすべての出発点であることは否定できない。言い換えれば能力はあっても、上手になりたいという強い志がなければ何事も極めの領域には達しえない。
政治の世界で言えば、総理大臣としてこの国を治めたいという志がなければ政治上手にはなれないということだろうか。だから総理を目指すこと自体は政治家の必要条件かもしれない。ところが菅が好きなのは国を治めることではなく、総理大臣という地位に就きたいというただそれだけであったのではないか。しかも本当の政治は下手極まりない。最悪の宰相であった。
野田新総理。久々に言葉で人々を感動させる力を持っているように思える。この人の義太夫ならぬ、政治を見てみたいと思った。土壌でも朝顔でもよいから、志を形とする努力を続け、これ以上多くの定吉を泣かせないでほしい。