先月末は大型の台風15号に日本列島が蹂躙されたばかりだし、先日までは汗ばむ気候であったのにこのところ急激に寒さが増している。そして、ふと気が付くと日の入りがやけに早くなった。5時になると早、薄暮となる。
昼が最も長いのが6月で、逆に夜が最も長いのが12月ということは小学生でも知っている。だから後2ヶ月で冬至となる今の時期、いまさら夜の到来の早さに驚くのはおかしな話である。だが、8月の酷暑のインパクトが強いために8月の時点ではまだ陽が短くなっていることを忘れがちである。実際の暦と心理的な季節感にはずれがあるようだ。それでも9月になるとつるべ落としの夕暮れに寂しさを覚え、10月にもなると秋の夜長を実感する。
昔から秋は「灯火親しむべし」と言われてきた。夜が長くなるとともにむせかえる暑さから解放されて過ごしやすい夜になるから、じっくりと書物を紐解くのにふさわしいと言うのだろう。ところが、現代都市では莫大なエネルギーを消費して街を不夜城と化し、エアコンで一年中快適な空間を作り上げている。その結果、そこに住む我々は一年中灯火に親しんでいる。
程度の差こそあれ現代都市生活者は全員宵っ張りの朝寝坊である。特に経済成長達成後に生まれた30歳以下の若者の中には漆黒の闇を知らない者が少なくない。エネルギーに支えられた明るい夜を当たり前と感じている。
以前から何回も説明したように、私たちの脳にある体内時計の固有周期はどういうわけか24時間になっていない。24時間よりも長く、25時間前後に設計されている。そのために、放っておくと生活のリズムがどんどん夜更かし、朝寝坊の方にずれていく。私たち人間は元来、隙あらば夜更かししたくてしょうがない動物なのだ。
では、本来夜更かし好きな固有リズムの体内時計をどうやって地球の自転に合わせているのだろうか。この時計の調整の原動力は光なのである。地球の自転周期がもっとも直接的に表現されるものが太陽の光であり、私たちが太古の時代からこの太陽の光を中心に生活を営んできたことを考えれば理解に難くない。
起床後、初めて強い光刺激を網膜に受けると、その刺激によって体内時計がリセットされる。そしてそれから14~16時間後に脳の中の松果体という場所から睡眠を促すメラトニンという物質が分泌されるようにセットされる。たとえば7時に朝の陽光を浴びれば午後10時頃に眠くなる。こうして我々は朝の光によってできそこないの体内時計を現実の生活に合わせている。
実際、自然を相手に農業、漁業、狩猟などの第一次産業主体の生活をしていた時代は生活そのものが太陽の動きに合わせたリズムを保っていた。したがって、その頃の人類は時計の狂いに悩まされることはなかったと考えられる。
ところが、化石燃料や原子力エネルギーなどのエネルギーを膨大に消費して生活環境を自分勝手に変えてしまった。そうして、ここ数十年で、私たちは太陽との関係が希薄になってしまった。その結果、体内時計を地球の自転に合わせる機会を逸して、遅寝、遅寝へと傾いてしまったのだ。
私たちの脳はいびつに発達したために、自分の生活の異常性に気が付かない。なんとなくうまくやれていると錯覚する。しかし、脳以外の臓器、システムは頑固に24時間のリズムで活動をしている。このためにいろいろな不都合が起きてくる。
一番直截的な障害は睡眠相遅延症候群である。これは急に地球の自転に合わせた生活を要求されても、25時間で固定されてしまった体内時計が言うことを聞かない状態である。朝方にならないと寝付けずにお昼ごろにならないと起きられない。まともな会社に勤めたならば、まず間違いなく解雇される。
地球の自転にあった生活をしないつけはこれだけではない。現代人に急増している気分障害、パニック障害、過呼吸症候群、摂食障害などのストレス関連疾患の根底にも不自然な生活リズムが深く関与しているように思う。また、いつの間にかメタボリック・シンドロームと改名させられてしまった高血圧、糖尿病、高脂血症、肥満などの生活習慣病も、その名の通り不自然な生活によって引き起こされることは言うまでもない。さらに、睡眠と深く関係している免疫機能にも悪影響を及ぼしていると考えられる。感染症、自己免疫疾患、アレルギー疾患、癌の発症にも遅寝遅が関与しているだろう。早起きは三文の徳どころか千金の徳と言える。
今回の東日本大震災でいくら科学技術が発達しても私たち人間は地球にとっていかにちっぽけな存在か思い知ったはずである。自然を力でねじ伏せようなどという大それた錯覚から早く目覚めよう。そして、私たちが地球の自然現象の一部であることを深く再認識し、自然と調和した生き方に戻る必要があるのではないだろうか。
現代社会において人の営む行為は必ず何らかのルールのもとに行われる。これを明確に示しているのが罪刑法定主義である。あらかじめ犯罪として規定し、それに対する刑罰を明確に規定してある行為以外の行為を後から処罰することは許されない。このことは日本国憲法第31条と第39条に規定されている。
堅苦しい刑法に限らず、もっと身近なスポーツでも、あらかじめいろいろな状況を想定してルールが決められている。そしてそのルールに則って正々堂々と勝負が行われる。試合途中でルールの不備が見つかったとしてもその試合はそのルールの下で最後まで戦わなくてはならない。ルールの改正はその後のことである。
10ラウンドと決められていたボクシングの試合で、決着がつきそうにもないからといって急に12ラウンドにされてはたまったものではない。1000m走競技なのに最後の一周まで差がつかないからといってゴールを100m伸ばされたら、1000mを目標に死に物狂いで走ってきたランナーの中には新しいゴールへ辿り着けない者も出てくるだろう。
当たり前のことだが、実際のスポーツ大会でそんな馬鹿げた風景は見たことがない。ところがスポーツの世界でさえない試合途中のルール変更が、こともあろうに、私たちの人生を左右する重大な事柄で行われようとしている。しかも国家の手によって。
このところ厚労省が、年金の支給年齢の引き上げに関する3つの案を発表した。いずれの案をとったとしてもゆくゆくは68歳までは年金を支給しない腹が固まったらしい。これまで歴代関係者が湯水のごとく使い果たして、すでに破綻している制度であるから、どれほどの反発があろうがいずれ現実化することは間違いがない。無い袖は振れぬというわけだ。
65歳のゴールを目指してひたすら走ってきて酸欠ならぬ金欠状態の国民に対して、「残念でした。ゴールは68歳に延長します。」と言っている。こんな理不尽なことが罷り通ってよいのだろうか。しかもそう遠からぬうちに68歳が70歳に引き上げられるのは想像に難くない。
案の定、私の周囲の若者はこの動きを知って「絶対に年金は払わない」、「私たちがもらえるはずがないから」と述べる者がさらに増えた。若者の年金離れが急加速すればいくら支給年齢を上げても制度崩壊の動きに一層の拍車がかかるだけである。
「将来必ず倍になって戻ります」、「損することはありませんから」とまことしやかな投資話で出資を募って、運用などせずに使い放題。出資者から「約束の配当が入金されない」と抗議があると、新たな出資者からの金の一部を利払いに回す。しかし、そんな自転車操業がいつまでも続くはずがない。早晩ほころびが見えてくる。司直の手が及ぶ前に雲隠れ。
こういった詐欺商法はいつの世も後を絶たない。だまし取られた金は戻ってこないが、その首謀者の多くはお縄となって処罰される。
国が行ってきた年金事業はよく考えると、こういった詐欺商法と何ら変わりがない。ただよくある詐欺事件と違っている点は、立案・実行者が政治家と国家公務員であり、そのスケールが壮大であるというだけだ。ところがその被害がどんなに甚大であっても、国家公務員による犯罪は当事者が処罰されることはない。役人は裁かれざる者なのだ。
国の誤った行政による被害は国家賠償訴訟によって損害賠償されることがある。冤罪被害者の賠償請求、ハンセン病患者人権侵害問題やB型肝炎問題などがそれである。しかし国家賠償訴訟のハードルは非常に高く、そのほとんどが敗訴になる。たとえ、勝訴して国の誤りを認めさせたとしても賠償金を得られるだけである。そしてその賠償金の出所はわれわれ国民の血税であることを忘れてはいけない。誤った政策で多くの人々の生命、財産を脅かした当事者たちの責任は問われない。彼らの自由も財産も保全されるのだ。
行政の仕事は国家という組織が行ったものであって、特定の個人にその責を求めることはできないという理由であろう。さらに、正当な業務として行われた行為を罰しないという法的な原則に基づくものと思われる。確かに、国のため、国民のために良かれと思って行った政策が、結果として失敗であった際に、いちいちその過失責任を問われたならば、役人は委縮してしまい、仕事ができなくなってしまう。しかし、過去に問題となった国の事業はすべてが善意の職務の過失だけであっただろうか。そうは思えない。あらかじめ、誤りが予想されているにもかかわらず、担当者およびそれを取り巻く一部の者たちの利益を主目的に強行した犯罪的政策もなかったとは言えまい。少なくとも、年金行政は立派な詐欺行為だと考える。
年金制度発足当初は就労人口が右肩上がりに増加していたが、やがて人口増加が止まり減少に転じることはよほどの知恵遅れでない限り分かっていたはずだ。であるならば、国民からお預かりしたお金は安全に運用しなければならないことも分かっていたはずである。にもかかわらず、彼らは国民から巻きあげた金は俺たちの金とばかりに、自分たちの利益のために使ってしまうことを選択した。どんなに使っても当分の間、少なくとも自分が現役である期間内は、収入が増加し続けるので支払いに窮することがない。だから悪事が発覚するのは自分が退官してずっと後のことであると踏んだのだ。
「将来、支払い不能に陥るかもしれない、おそらく陥るだろう、しかしそうなってもかまわない」。これは未必の故意である。十分に犯意があったと言える。百歩譲っても善意に基づく職務行為とは言わせない。
歴代親分の犯罪を糊塗するために跡目を継いだ官僚やくざがとろうとしているのが、試合途中ルール変更という荒業である。非を認めて損害賠償どころか、この上まだ「百年安心」などと言って、さらに国民からむしり取ろうと画策している。何をかいわんやである。
いい加減で利己的な行政を改めさせるためには、悪質な失政があった際には歴代の責任者を処罰するしかない。僅か1,2年の現職期間が過ぎれば時効で免責されるという風潮を改めて、過去に遡って責任者の罪を糾弾し、その私的財産を没収すべきだと考える。
権限と責任は表裏一体のはずである。ところが現在の行政機構は、権限だけは振り回して責任は取らなくてよいシステムになっている。さんざん悪さをしておいて、咎められると「僕がやろうっていったんじゃないもん」、「先生(政治家)がやれやれって言うからみんなでやったんだもん」、「それにもう僕そのグループにいないから分かんない」と言い逃れする甘えたガキと一緒である。任期中にばれなければどんなことをしても許されるという甘えから目覚まさせれば、そう無責任な仕事をできなくなると思う。
国家行政に携わる者がいつまでも裁かれざる者であってはならない。もしこの状況がいつまでも続くならば国家への信頼は完全に消失する。国民に信頼されない国家が成り立つはずがない。また一方では別な形で裁こうとする動きが出てくることも懸念される。
皆さんは2008年11月に起こった殺人事件をもうお忘れだろうか。小泉毅という無職の中年男が厚労省元事務次官夫妻、元事務次官夫人を殺害した事件だ。
彼が荒唐無稽な動機として述べている愛犬の名前、「チロ」が私には「テロ」という不穏な言葉に聞こえてならない。2人目、3人目の小泉が出てこないためにも、公務員個人に対して相応の責任を問うことができる制度に変革するべきだと考える。
先日、仙台地裁で大津波で我が子を失った4家の遺族が幼稚園に対して2億7000万円近くの損害賠償を求める民事訴訟の第1回公判が開かれた。東日本大震災直後、園児を保護者に引き渡すべくバスで移動中に、予想だにしなかった大津波に襲われて5名の園児が亡くなった。
大変不幸な事件ではあるが、停電でテレビがつかず、防災無線も不通状態の中での幼稚園の懸命の対応を、重大な過失として責め立てるのはいかがなものか。私は、行動の出発点である善意の動機を顧みず、ただ結果だけから非難するこういった風潮には大野病院産婦人科医逮捕事件の時と同じように、後味の悪い不愉快さを覚える。
しかし、一つの出来事をどう評価するのかは人それぞれである。人生観、価値観が異なるからだ。たとえば、1万円を手にした時、「1万円も手に入った」と喜ぶ人もいれば、「たった1万円しか得られなかった」とぼやく人もいる。金銭感覚はその人の経済状況で容易に変動するから同じ金額に対するありがたさが違うことは容易に理解できる。
しかし、もっと基本的な感覚であっても主観的な体験には個人差がある。たとえば美的感覚。好みの異性の外観は人によって全く違う。好きなメロディやリズムも千差万別。料理の味付けの好みも多様である。
こういった好みの多様性は過去の経験の違いが大きく関与するものと思われる。さらに、もっと基本的な生物学的な知覚レベルにおいても人の体験は多様と言える。林檎を例にとってみよう。リンゴは赤いと言うが現実のリンゴは真っ赤ではない。まっかな部分もあれば一部黄緑がかった部分もあるのが現実のリンゴである。
このリンゴを見た時、多くの人は大部分を占める赤に注目して「このリンゴは赤い」と認識する。しかし中には端の方の黄緑の部分を注目して「下の方が黄緑のりんご」と認識する人もいる。色覚そのものに大きな差がなくても、網膜に映った同一画像をどのように認識処理するかという点で個人差が出てくる。こうなると一つの林檎を見るという単純な出来事でも内面的な体験は大きく異なってくるのだ。
そもそも、赤いと言っても私たちは皆同じ「赤」を見ているのだろうか。一つの林檎を貴方と私が見た時に、同じリンゴの赤を私の脳が感じているのとまったく同一に貴方の脳が感じるという保証はない。実は私が体験する「赤」と貴方の「赤」の体験は全く違っているのかもしれない。
しかし、幼小児期からいわゆる赤いものを見せられる度に「これは赤だ」と繰り返し教え込まれる。だからもしかすると、お互いの脳の体験は全く異なっていても、その体験を共通の「赤」という概念で表現しているのかもしれない。たとえ主観的な体験が異なっていても、「赤」という共通の言語で表現する限り、社会生活上何ら齟齬は生じない。私たちが言語でしかコミュニケーションをとることができない以上、それぞれの体験が厳密に同一かそうでないかを証明することは不可能なのだ。
根本的に、私たちは同一の事象に接したとしても同一の体験をすることはあり得ない。言い換えれば、私たちの体験は皆それぞれ違っているのが自然であると言える。そこへ持ってきて生まれ、育ち、教育環境、経済環境も異なっているのであるから、十人十色どころか百人百様で当たり前である。自分の感覚尺度を振りかざして安易に「これって常識だろう」と言わない方がよい。
俺がこう感じているのだから、相手だって同じように感じているはずだという思い込みがしばしば争いの発端になる。人の体験は皆違うという観点から出発した方が、むしろより多くの人と協調することができるように思うのだが。
オリンピック種目が次々と増えていく。次のオリンピックでゴルフも競技種目になると聞くが、私はゴルフがオリンピックにふさわしい競技だとは思えない。あまりにも人為的な競技だからだ。同じ理由でフィギアスケートもオリンピックではなく、ショーとして行うほうがよいのではないかと思う。
観戦者の立場から言うと、スポーツは単純に速さ、強さを競うものの方がより興奮する。たった10秒未満で終わってしまうウサイン・ボルトの走りに世界中が熱狂する理由もそこにあるのではないだろうか。
すばやく自由に移動したい。この欲求は人間の動物としての本能に基づいていると思われる。だから獲物を追って疾走するチータの映像に背筋が寒くなるような畏敬の念をおぼえるのだ。
しかし、人間は自力では100メーターを3秒ちょっとで走るチータには到底及ばない。ボルトでさえ、せいぜいラクダやゾウ程度のスピードしか出せない。ウサギや猫にさえ負けてしまうのだ。
それでも、より早く移動することを求める人間は、その目的のために自己以外の力を利用することを考えだした。その手段としては長らく馬やラクダといった家畜が主役であった。大きな変化が起きたのは産業革命である。馬やラクダに変わって蒸気機関を利用した乗り物(1769年フランス人ニコラ=ジョゼフ・キュニョーによるキュニョー砲車)が登場した。
ガソリンで走る自動車は1870年オーストリア人、ジークフリート・マルクス
が1870年に開発した。その後。ドイツ人のダイムラーやベンツによって本格的なガソリンエンジン自動車や2輪車が生産されてモータリゼーションの幕が切って落とされた。
動力機関に頼らず、自分自身のエネルギーを使って移動する自転車はさぞかし古い歴史を持つのだろうと思っていたが、意外とその歴史は浅い。2輪自転車の祖先とされるドライジーネは1817年にドイツ人、カール・フォン・ドライスによって発明されたが、これは二つの車輪を持つというだけで、駆動装置はなく、移動は足で地面と蹴って走るものであった。スケートボードに車輪をつけたようなものであった。
ペダルを回転させて走る本格的な自転車は1861年のフランス人、ピエール・ミショーによるミショー型自転車の登場を待たなければならない。自動車に比べて簡単な機構にもかかわらず、自転車の開発が遅い理由はスピードが馬に及ばないことにあったのではなかろうか。だからその後も自転車は、先進国では一部のファンにスポーツとして愛される以外は、女子供の移動手段といった感が強かった。
自転車は給油も充電も必要としない。エコロジーの観点からみるともっとも優れた乗り物と言える。近年ようやく私たちも地球の資源に限りがある現実を理解し始めた。それに呼応して世界中で自転車の価値が見直されてきた。さらに我が国におけるこの流れを東日本大震災が一気に加速させた。
あの日首都圏ではあらゆる公共交通機関がとまり、道路には車が溢れだし壮大な駐車場と化した。1時間移動するのに数時間を要するありさまだった。いわゆる帰宅難民問題。さらに、地震と津波によって多くの石油関連施設が破壊されたために、その後数週間にわたって石油が入手困難になった。このために東京を中心として自転車通勤の一大ブームが起こり、町を疾走する自転車が倍増した。
環境汚染の問題にとっても省資源門にとっても好ましい現象なのだが、一方では由々しき事態も進行している。自転車による交通事故の急増だ。これは自転車数の増加に伴う必然的な増加だけでは説明できない。自転車を運転する人の交通マナーの欠落と、それに対する行政の対応の不備が自転車による重大事故を誘発していると考える。
車で東京の街を一走りしてみよう。目に余る自転車の無法運転を何十件も目にするだろう。信号無視、交差点の斜め横断、車道の右側通行、歩道の爆走、歩道の複数台並走、携帯をかけながらの運転、傘をさしながらの運転、飲酒千鳥足運転などなど枚挙にいとまがない。
私が目撃した事故。それは霞が関へバイクで通勤途中の白山通りの出来事である。路上駐車の車をすり抜けるように車道の右側を猛スピードで突っ走る自転車を目にした。その直後、歩道寄りを走って駐車中の車のわきを過ぎようとしたタクシーが、駐車中の車の陰から突然飛び出してきた件の自転車と正面衝突してしまった。私は先を急ぐのでその後の成り行きは分からないが、自転車の運転手が命にかかわる重傷を負ったであろうことは疑う余地がない。
私はその瞬間、自転車の主の安否よりもタクシー運転手の不運と、彼のその後について心配した。なぜならば、我が国ではどれだけ自転車の方に過失があっても、事故となった以上、自動車の側が過大な責任を問われるからだ。
以前私の知人がT字路の優先道路を法定速度内で車走らせている時、横から自転車に激突された。出てきた自転車をはねたのではない。交差点を通行中に横から自転車にぶつけられたのだ。明らかに自転車に非がある。にもかかわらず知人は注意義務違反を問われた。
日本の道交法は、規則そのものはすべての人に平等であっても、運用の段階で判官びいきが日常化している。すなわち歩行者より自転車、自転車より自動車に重い責任を負わせるのが現実なのだ。
ドイツでは、歩行者が自動車にはねられて死亡したとしても、はねられた場所が歩行者の横断が許された場所でなかった場合、自動車運転手に罰が下されることがないばかりか、逆に遺族が運転手から精神的損害賠償を請求されることがあるそうだ。さすが厳正な法治国家として知られるドイツならではと言える。あまりにも杓子定規な法の適用は息が詰まるが、弱者優遇が過ぎれば法治国家の信を問われることになる。
そもそも自転車が弱者と言えるか。補助輪の付いた小児用自転車や高齢者用自転車ならばいざ知らず、時速30km近くで疾走する金属の塊を一方的に弱者とは呼べない。ましてや、今流行っている競技用自転車などは時速60km近い性能を持っており、十分に凶器と言える。
ヘルメットで自身の安全は確保して、こういった凶暴な自転車で車道、歩道関係なく、自動車の間を縫うように、さらには信号も無視して走り回る連中は凶器を持ったならず者である。保護すべき弱者ではない。ママチャリも決してかよわき弱者だけではなく、立派な犯罪者予備軍がいる。
前後に幼児を乗せて平然と信号無視して交差点を斜め横断する馬鹿女。自分だけで死んでくれれば良いが。巻き添えをくわされる子供から見れば立派な殺人未遂と言える。さらに、こういう親に育てられた子供が法規範に対する意識が希薄になるのは当然である。極めて罪深い行為だと思う。
自転車の無謀運転の根元は何か。それは自分さえよければよいという、利己的欲望ではなかろうか。そう考えれば環境破壊、資源枯渇問題と同根と言える。人が利己的な欲望に歯止めをかけない限り、いくら自転車に乗ってみたところで、未来は明るくならない。
利己的で他者を思いやる気持ちを持てない自転車族が増え続けるならば、取り締まりを徹底的にやっていただくしかない。ところが、自転車の暴走が後と絶たない一つの原因に、自転車運転が免許制でないことがこの取締りを困難にしている。免許がいらないことが自転車が車両であるという認識を持ちにくくして、さらには違法行為を見つかっても叱られるだけで痛くも痒くもないからだ。
私は本来は性善説に基づきたいのだが、さすがに今の自転車の横暴ぶりを看過することはできない。自転車運転も免許制にし、違反を見つけたら罰金と免許没収を課し、一定期間運転を禁ずるといった措置を取らざるを得ないところまで来ているように考える。ならず者を野放しにしておいてはいけない。
タンパク質、脂肪、炭水化物、ミネラル、特に食物繊維を大量に含み、タンパク質は消化しやすい形に分解されているもの、それはうんこ(糞)である。また、うんこはまた穀物栽培に欠かせない窒素やリン酸が豊富なので、植物の重要な栄養源である。
以前は私たちも有機肥料として牛糞、鶏糞の他に人糞を重用していた。しかし、水洗便所の普及とともにうんこを回収することが困難になって、今では人糞を肥料として利用することができなくなった。因みに、西武池袋線は都心部で回収した人糞を練馬以遠の百姓に輸送することで発展した路線である。
うんこは動物の栄養源でもある。うんこがいかに滋養豊富かは小さい頃にファーブルの昆虫記を読んだ方なら第1章に登場するフンコロガシを思い出せばお分かりになるであろう。フンコロガシの属するコガネムシ類以外でも糞を食料とする昆虫は多い。グルメで有名な蠅も糞を見つけると我先に飛んでくる。
昆虫よりも高等な生物でもうんこを食べる。ウサギは自分のうんこを食べる。一定量の食物から無駄なく栄養を吸収するために繰り返し腸管を通過させるのだ。哺乳類の中には子育て期間中、子供のうんこを食べる動物、反対に自分のうんこを子供に食べさせる動物もいる。
人以外のうんこはいろいろな場面で利用されている。乾燥地帯では家畜のうんこを乾燥させて燃料や壁材にしている。鶯のうんこは昔から美白のための化粧品として重用されてきた。この美白効果は鶯のうんこに含まれる消化酵素の働きによると考えられる。アフリカでは象のうんこに含まれる未消化の食物繊維を利用して紙を作る部族がある。また象のうんこを原料とするお茶を飲む習慣もある。世界最高のコーヒーとされているコピ・ルアクはコーヒーの豆を食べたジャコウネコが排泄した種子を取り出して加工した逸品である。ジャコウネコの消化酵素の働きと香水にも利用されるジャコウネコの会陰部から分泌される香り物質の作用によって独特の風味が生み出される。
挙げればきりがないほど、うんこはとても有用な再生資源なのである。食べて排泄してそれが土に戻り植物を育て、その植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物が食べるという食物連鎖の原点でもある。何の利用もしないままに海に流してしまう現代都市社会のシステムはこの自然の連関システムを破壊する罰当たりな行動と言える。
以前、モンゴルを旅行したことがある。我々が宿泊しているゲル(テント)の周囲では彼らが飼っている馬が排泄し放題。隣のゲルに行く時も相当用心しなければ馬糞を踏んでしまう。初めのうちはおっかなびっくりつま先立って歩いていた。しかし2日もするとその自分の行動がいかに馬鹿馬鹿しいか気付いた。モンゴルの乾燥した草原では、馬糞があっという間に土に還元されてしまうからだ。こんもり排泄された馬糞が翌日にはもう周囲の土との区別がつかない状態になってしまう。見方を変えれば、それまで広大な大地と思っていた物は実は膨大なうんこの塊だったとも言える。つまり、ちょっとした肉眼的な違いや匂いでうんこと土とを区別すること自体が浅はかであることを思い知らされたのである。
太古の時代から私たち地球上の生物の生命の連鎖の重要な役割を担ってきたうんこ。しかし、世の中で私たちから最も嫌われる存在でもある。私たちはどうしてうんこを忌み嫌うのであろうか。
理屈好きな人は「不衛生だから」と言うだろう。確かに、私たちのうんこの構成成分を見ると、60%は水分。残る40%のうちの1/3は腸内細菌(大腸菌や乳酸菌など)とその死骸である。コレラ、赤痢、O157といった伝染病の有力な感染源であることは確かだ。
しかし、これは特殊な病原菌を持った人のうんこについての話である。健康体のうんこには病原性のある細菌は含まれていない。常在する腸内細菌はむしろ病原性細菌の侵入・増殖を食い止める強力なガードマンの働きをしている。また、私たちの代謝に欠かせないビタミンの一部の補給源でもある。私たちとその腸内細菌とは共生関係にあるのだ。他人のうんこはともかく己が生み出したうんこを不衛生と恐れる理由はない。
私が考えるに、うんこがこれほど嫌われる理由は病原性云々といった科学的な根拠以前に、本能的に色と匂いを不快と感じるという点にあるのだと思う。
うんこは消化液である胆汁中のビリルビンが腸内細菌によって代謝された生成物、ステルコビリンによって黄土色あるいは茶色をしている。爽やかな 色とは言えない。これがピンクかゴールドであったらうんこに対する印象がはるかに違ったのではなかろうか。
悪臭の元はインドール、スカトール、硫化水素などである。もしこれが芳しい香りであったらうんこの待遇は改善されていたかもしれないが、実は先ほど出てきたジャコウネコの分泌物から採られる香水の原料、ムスクの成分の一つがスカトールなのだ。さらには、やはり香りの王様と言われるジャスミンの成分にはインドールが含まれている。
人が快と感じる匂いと不快と感じる匂いには実は化学的にあまり大きな差がない。濃度とバランスで快にも不快にもなる。それくらい嗅覚はとてもデリケートで理不尽なのだ。
我々がうんこの匂いを悪臭と感じる理由は動物としての本能に由来すると考える。動物は自分の縄張りを誇示するために境界域に排泄物をまき散らす。一方、天敵からの攻撃を受けないためには自分の隠れ家に排泄物をためないようにする。私たち人間も、遠い種の記憶によって排泄物を遠ざけるように仕組まれているのではないかと考える。
病原性、見栄えの悪さ、悪臭などが嫌われることは理解できる。それでもなお、私はうんこがあまりにも不平等かつ不当な扱いを受けていると感じる。なぜならば肛門括約筋を境に内と外とで私たちの扱いが豹変するからだ。
自分の恋人に「君のすべてが好きだ」と言っておきながら、ついさっきまでその愛する人の一部であったうんこなのに、日の目を見たとたんに嫌悪すべき異物として扱う(稀に外へ出たうんこをこよなく愛する性癖の方もいるがそれは例外)。
自分のうんこにさえ手のひら返しをする。それまで自分の一部であったのに、外へ出たとたん、お前など自分とは縁もゆかりもない化け物だとばかりに忌み嫌う。
私はことさらうんこを好きなれと言っているのではない。しかし、私たち自身がうんこを作り、排泄し続けること、そしてうんこが命の連環の重要なバトン役であることを忘れてはいけないと思うのだ。水洗トイレが普及し、うんこを肥料として使用しなくなった頃から急増した花粉症やアトピーは、もしかすると迫害されたうんこからの仕返しなのかもしれない。