「愚か者」、「うつけ者」は馬鹿者を意味する。しかし、知能指数が低い精神発達遅滞者とはニュアンスを異にする。
大王製紙前会長、井川意高(もとたか)(47歳)が特別背任容疑で逮捕された。容疑内容は大王製紙の連結子会社から総額106億円も借り入れてカジノに使ってしまったというものだ。使いこんだ額も前代未聞だが、その使い道もまた破天荒。一部上場会社のオーナー会長としての資質どころか一人前の大人なのかさえも疑われる行為である。呆れて口が塞がらないとはこのことだ。
井川家や大王製紙と縁もゆかりもない私だから口を開けておくだけですむが、関係者はいったいどういう思いでこのニュースを聞いているのだろうか。虎の子の資金で大王製紙株を買った株主の怒りもさることながら、時給何百円かで一生懸命働いている大王製紙関連企業の従業員の無念さは想像に余りある。
ワンマン経営者が会社の金を私物化する例はこれまでにもよくあった。しかし、今回ほど児戯的な行為はなかったのではないだろうか。
リヤカーによる古紙回収から身を起こした祖父、一度潰れかけた同社をティッシュペーパーのまとめ売りで立て直した中興の祖である父。当然、井川家は大王グループ内で天皇家のような存在になった。3代目に当たる意高が将来グループ企業の総帥になることを運命づけられて教育されてきたことは想像に難くない。はたして井川家の帝王学とは。
意高は小学生の頃から飛行機で東京の進学塾に通っていたという。その甲斐あって、有数の進学校に進み、さらには東大法学部に合格する。さぞや親も鼻高々であったろう。ところが彼は学生時代からギャンブルにはまり、銀座の高級クラブの常連だったとも聞く。学生の分際でそういった金の使い方を覚えるのも井川家にとっては帝王学であったのだろうか。
外見はテレビで見るとおり、すっきり爽やかな二枚目。とても47歳には見えない。この外見を若々しくて素敵とみることもできようが、未熟で責任感のない青二才にも見える。今回の行動に鑑みれば後者が正しいと言える。
東大の入試を突破する能力は育ったものの、大人として身につけておかなければならないそれ以外の力、道徳力、責任感、人を思いやる力など、そして何より、やって良いことと悪いことの区別ができる能力は一切育たなかったようだ。結果として、英語の単語を覚えたり数学の問題を解く能力以外の重要な多くの能力が欠落した未熟な大人もどきが出来上がってしまった。こういう人間を愚か者、うつけ者と呼ぶ。
現代では試験問題を解く能力だけを見て頭の良し悪しを問うようになってしまったが、性格を含めてそれ以外の人間力も実は脳の機能である。したがって意高のような男を「頭がいいのに無責任な男」と表現するのは実は間違いなのである。「試験問題を解く能力だけしかない頭の悪い男」なのだ。
井川家の帝王学はこういう頭の悪い男を育て上げた。子供を育てるのも脳の能力の一つなのだから意高の親もまた愚か者と言える。改めて親の顔を見てみたい。
若さを売り物にする傾向は意高に始まったことではない。実際に政治家を見ても昔の政治家に比べて皆若々しい。街を歩くサラリーマンも実年齢より若く見える人が多い。外見は中身をよく表す。日本人全員が昔に比べて未熟なように思う。実際、結構な地位にいるのに大人としての責任あるけじめをつけられない人が増えている。言い換えれば、愚か者が増えたのだ。
こうなった原因は何か。私は、戦後の親たちが教育とは試験の点数を取る能力を高めることだと思い違いしてきたことにあるように思う。そういう親は、教育は学校や塾の責任だと思っている。だから、学校で何かあるとヒステリックに教師たちを責め立てるばかりで、親としての自責のかけらも持ち合わせない。ところが本当に大事な教育は学校では教えられないことなのだと私は思う。それは家庭や地域で親や身近な人が身をもって教え込むことなのである。
戦後における家族と地域の崩壊は我が国に深刻な社会病理をもたらした。
家族水入らずで、すき焼きを食べていると町の顔役がやってきて、「その肉はやめてうちの肉を食べろ」と押し売りする。老後のことを考えて貯蓄していると、またもや件の顔役がやってきて、「貯蓄なんかしないで俺に金をよこせばいざという時に面倒見てやる」と脅してくる。親からの言い伝えにそって子供を躾ていると例の顔役がこう言う。「そういう考えは間違っている俺様の言う教育方針で子供を育てろ」。
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」という諺がある。人はそれぞれ分相応の考え方や行動をし、自分の力量に応じた生活をするのがよいと言っている。
実際に私たちはそれぞれの家族構成、収入、家の立地条件、環境条件、人生観に合わせて自分たちに見合った生活様式を選択している。億万長者と年収300万円の家が同じ生活を強いられたならば、貧しい家庭の生活はあっという間に破綻してしまうに違いない。
しかし、自分にあった生活をすることをよしとせず、どの家庭も同じ行動、同じ生活様式をしろと強要する顔役が幅を利かせる街に住みたいか?私はご免こうむりたい。
TPP推進派の主張のキーワード、グローバリゼーション推進とはまさにこの強要に他ならない。各国それぞれお家事情が違うにもかかわらず、これが世界標準だといって社会、文化、経済活動を単一化することが正しい道なのだろうか。また、その標準とは誰がどうやって決めるのか。
グローバリゼーションは大航海時代に端を発する。そしてヨーロッパ諸国による植民地主義とともに本格化した。第二次世界大戦後はアメリカを中心に多国籍企業が台頭して現代のグローバリゼーションが始まった。この流れが急加速したのは1991年ソビエト連邦崩壊後である。冷戦の終結による自由貿易圏の拡大と運輸、通信自術の飛躍的な発展に伴ってグローバリゼーションが声高に叫ばれるようになった。
グローバリゼーションとは必然的な社会現象である。しかもインターネットの普及によって動かしがたい大きな流れであることは間違いない。そしてグローバリゼーションはさまざまな恩恵を我々にもたらす。情報の共有化によって科学技術や文化の発展を助け、多くの人がそれを享受することができるようになる。各個人が幅広い自由を得る可能性がある。各国がより密接に結びつくことによって戦争を回避できるかもしれない。環境問題など地球規模の課題に地球人として取り組むことが可能になる。などなどである。
しかし何事も功罪併せ持つものである。殊にこの社会現象に乗じて私利増大を図る者によって強引に方向付けされることによって、グローバリゼーションの負の側面が増大し、深刻な状況をもたらしている。投機資金の短期間での移動による株式市場の混乱、国内資産の海外流出、国際競争に勝ち残るための労働基準の環境基準緩和や社会福祉の切り捨て、多国籍企業や大資本家による搾取の強化とそれに伴う国内産業の衰退とプレカリアート(非正規雇用者および失業者)の増大などである。さらには各国の風土の中で醸成されてきたシステムや文化の崩壊を招いている。
世界標準として、本当に地球全体の平均値あるいは中央値を選択するならばこれほど大きな弊害は起こらなかったであろう。しかし、現在グローバリゼーションを推し進めようと躍起なのは、強欲な多国籍企業や資本家、そして彼らを後ろ盾とするマスコミ、御用学者といった連中であり、彼らが示す世界標準とは世界の標準とは程遠いアメリカの社会、経済、文化(成熟した文化があるか甚だ疑問だが)なのだ。今、強引に進められようとしているグローバリゼーションとは実はアメリカナイゼーションに他ならない。つまりグローバリゼーションとは形を変えたアメリカによる植民地拡大と言える。
グローバリゼーションを盲目的によいことと信じ切ってはいけない。いったんグローバリゼーションの呪縛から解き放たれる必要がある。そして、もう一度これからの世界のあり方を考え直す時に来ているように思う。ウオール街デモの拡大はそれを象徴する出来事だろう。私は従来の資本主義経済の終焉が近いのでないかと考える。
このところ新聞の一面を賑わすTPPという言葉を正確に理解している者がどれだけいるだろうか。私は社会の出来事にそれほど無関心ではない。しかし、経済学を学んだことが無く、医療という井戸の中で生活してきたので、未だTPPの全容を把握できていない。
ワイドショーに登場する町の声を聞いても「食材が安く買えるようになるからいいんじゃない。」、「日本の農業が完全に壊滅してしまう。」、「乗り遅れたら大田区の町工場は潰れてしまう。」といった断片的な発言ばかりで、国民がTPP参加のもつ真の意味を理解しているとは思えない。
TPPとは(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership AgreementまたはTrans-Pacific Partnership)の略で、日本語では環太平洋戦略的経済連携協定と言う。経済連携協定(EPA)の一つであり、加盟国間での工業製品、農水産物を含む全品目の関税を撤廃する他、政府調達(国や自治体による公共事業や物品、サービスの購入など)、知的財産権、労働規制、金融、医療サービスなどにおけるすべての非関税障壁を撤廃して自由にする協定である。
現在シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4カ国が加盟し、アメリカ、オーストラリア、ペルー、ベトナム、マレーシアの5カ国が加盟を表明している。
ハワイで開催されているAPEC(アジア太平洋経済協力会議)において、議長を務めるオバマ大統領へのお土産として日本のTPPへの参加表明という野田総理の暴挙がなされる。
このTPP参加表明がなぜ暴挙なのかと言えば、TPP加盟によって我が国にどのような具体的変化が想定され、それに対して政府がどのように対応しようとするのか全く説明が無いままに飛び乗ったからだ。
野田はこの問題について「国民の議論が煮詰まれば決断する」と言ってきた。にもかかわらず、煮詰まるどころか多くの国民がTPPのTさえも十分に理解しないうちにアメリカへの貢物として捧げだした。これは民主主義をないがしろにする売国の行為と言えよう。
野田と彼を操る一派の国民を愚弄する行為は今回のTPPに始まったことではない。彼は11月3日にカンヌで開催されたG20サミットにおいても、未だ国内で議論真っただ中の消費税引き上げを、勝手に国際公約してしまった。国民に周知する前に対外的に発表し既成事実化するという手法は卑劣極まりない。どじょうを自称しているが正体はどうやら派手好きで悪食の鯉であるらしい。
冒頭にも述べたとおり、私はTPPが日本にどのような変化をもたらすのか、全体を理解しているわけではない。しかし、私の生業である医療にとっては致死的な毒になると考える。なぜならばTPPには医療に関する障壁を取り除くと明確に記されているからだ。これは、数年前にヒットしたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画、「SiCKO(シッコ)」に描かれていた、狂気の医療ビジネスが我が国に持ち込まれることに他ならない。
アメリカでは、日本で当たり前となっている国民皆保険制度がない。自由主義を掲げる国アメリカではすべてが自己責任に帰するからだ。したがって病気やけがの治療は原則、全額自己負担である。
当然ながら、お金のある人は高水準の医療を受けることができるが、貧しい人は医療を受けることができずに死んでいく。しかも何でもかんでも「マネー!」、「マネー!」のアメリカのことだから、医療行為の一つ一つのお値段は目の玉が飛び出るほどの額である。喘息治療の吸入薬1本がなんと10,000円以上もする。当然、一部の富裕層を除けば、一般の中流家庭でも、いったん家族の誰かが病気にかかってしまったら、それをきっかけに貧困家庭へと転落していかざるを得ない。
そういう事態を避けるために、中流階級の人々は民間の保険会社の医療保険と契約して、いざという時に備える。こうして、本来営利的性格とは似つかわしくない医療の世界に、金の亡者の代表、巨大資本の保険会社が闖入して医療を取り仕切っている。
営利追求が本来の目的である民間の保険会社がその職務を全うするためにはどうすればよいか。その答えは実に簡単。掛け金だけいいただいて支払わない。映画SiCKOではこの基本方針がぶれることなく徹底的に遂行される現実が克明に描かれている。
TPPが実現すればまた、長年アメリカが日本に要求してきた医療機関の株式会社参入が公然と行われることにもなる。病院が株式会社となるということは、病院の使命が患者の救済から営利追求に切り替わることを意味する。病院は利益を上げることに全身全霊を上げて努力しなければならなくなる。
保険会社と結託した株式会社の医療機関は支払い能力のある人間だけに手厚い医療を提供し、金のない人間は玄関先で命を絶っても無視する。SiCKOの中に、入院していた老人が、医療費を払えなくなったという理由で、点滴用のチューブをつけたまま車で運ばれて路上に捨てられる衝撃的な場面がある。極悪非道なアメリカの医療の実態を象徴するワンカットである。
小泉のブッシュへの貢物であった保険会社の門戸開放が徐々に実を結びつつある。毎日のように観ているとアメリカ系の保険会社の「医療保険」のコマーシャルに違和感を覚えなくなってしまった。でもよく考えてみよう。国民皆保険制度の日本でなぜ民間保険会社が医療保険を販売しているのだろう。
現在の日本ではすべての国民が健康保険に加入して、平等な医療を受けることができる。しかし、いったん病気になると医療行為そのもの以外にも多くの支出を余儀なくされる。入院時の差額ベッド代、通院時のタクシー代などなどである。これまでは、こういった医療周辺の支出には生命保険の疾病特約などが対応していた。この部分だけに特化した保険がいわゆる医療保険である。この分野は日米の取り決めで2001年まで外資系保険会社が独占してきた。
TPPが実現するとどうなるか。ここから先は私の想像だが、医療保険の守備範囲が徐々に拡大してやがては公的な健康保険にとって代わると考える。
まずは混合診療が公認される。はじめのうちは先進的医療行為を健康保険でまかなうと保険財政がパンクするというキャンペーンがはられて先進的医療行為は健康保険では受けることができなくなる。そしてその医療費を保証するべく医療保険の市場が拡大する。やがて間違いなく、発生頻度の低い疾患を健康保険対象から除外される。なぜならば、市場拡大を狙う保険会社と、国の医療にかかわる支出を削減したい国の利害とが一致するからである。最後には感冒や単純な高血圧といった疾患だけが健康保険の対象疾患として残されるだけになって、少し手のかかる病気はすべて自費になる。当然自費では払えないから民間の医療保険に入っておかないと医療を受けられないという図式が完成する。
私はこれだけでは終わらないように思う。今でも国は医療費の支払いを「出来高払い制」から「まるめ方式」に変えたくてしょうがない。「まるめ方式」とは個々の病状とは関係なく、診断名で治療費を決めてしまうやり方だ。このやり方は感冒ならば○○円、高血圧ならば一ヶ月に△△円と一律に価格が決定される。すぐに治ってしまう感冒でも、重症で長引いた場合にでも、そんなことはお構いなしに○○円が医療機関に支払われる。高血圧も同じである、薬の質、量、検査の有無とは無関係に1月の診療費が決定されて支払われる。
過剰な処方や検査を防ぐためにはよいかもしれないが、一層、経済的観点だけから医療が行われるようになる。医療機関は赤字になるわけにはいかないので、効果がどうであろうと安い薬しか使わなくなるし、必要な検査も控えられることとなる。なにせ、何もしない方が儲かって、医療行為をすればするほど赤字になってしまう仕組みだからだ。こうして、これまで世界でトップレベルの医療を受けられていた日本国民も健康保険だけでは、アメリカ人と同じように本当に最低限の医療しか受けられなくなる。
ここにまた民間保険の金儲けの場ができる。日常的な病気に対しても、少しでもましな医療を受けたい裕福な人はさらに民間医療保険を上乗せすることになる。こうして日本の国民皆保険制度は完全に崩壊する。
それでは公的保険にとってかわった民間保険が私たちの健康を守ってくれるのだろうか。甚だ疑わしい。保険会社は支払いの段になるとなんやかんやといちゃもんをつけて踏み倒そうとするにきまっている。私の推測を裏付けるように、もうすでに我が国の医療保険において保険金の不当不払いが問題化している。
TPP推進論者たちは、ともかく参加して個別の問題に対しては毅然と日本の国益を守ればよいと、口先のきれい事を言う。しかし、圧倒的な軍事的プレゼンスを持ったアメリカに、これまで我が国が毅然とした態度をとってこれただろうか。ましてや、TPPとなれば、二国間交渉ではない。日本とは利益が共通でないアジア、オセアニアの票を集めたアメリカの一方的な寄りきりになることは火を見るよりも明らかである。
何よりも今回の決定を許せない理由は、国家の存亡にかかわる重大事項を、国民の理解どころか、なんら説明もなされぬままにアメリカへの追従行為として決定したことである。
野田は歴史に残す総理となるかもしれない。わが国をアメリカの植民地として捧げた男として。
昔昔、中国の杞(き)の国に天が落ちて地が崩れたならば、身の置き所が無くなってしまうと心配して夜も眠れず、食べ物も喉を通らなくなった男がいたという。この故事から、心配する必要がないことをあれこれ心配すること、あるいは取り越し苦労のことを「杞憂(きゆう)」と言う。
人間は意識水準が覚醒状態の時には、何も考えないでいるということができない。何かしら考えている。そして目の前の課題のこと以外に、過去の出来事や先々起こるであろうことに思いをはせる。
過去の栄光の日々や楽しかったことを想い出すと心が温かくなり自信が湧く。しかし、つらい想い出や失敗を思い出すと気分が滅入って自信を失う。最近、ニュートリノの一部が光速よりも速く飛ぶ可能性が出てきたために、遠い将来はタイムマシンができて、過去をやり直すことができるようになるかもしれない。しかし、ここしばらくは、我々は現在でしか生きられない。過去をやり直すことはできないのだ。それでは失敗の想い出にはどう対処すればよいのだろう。
失敗した原因を検討して将来同じような状況に立った際、同じ轍を踏まないように反省することがもっとも建設的な対応であろう。しかし反省という作業は出来事の直後でなければ成立しない。細かく正確な事実関係に関する記憶がそう長く維持されないからだ。時間が経つと、事実に関する記憶は薄れてしまうのに、「失敗してしまった。大変だ。どうしよう。」という感情的な記憶は減衰しない。だから、スポーツで敗戦した時の反省会は試合直後に行わなければ意味がない。時を経てからでは後悔を共有し、愚痴を言い合うだけの残念会になってしまう。そして後悔は心を苛むだけでなんら益をもたらさない。
一方、これから起こるであろうことに対して考えることは必要な場合がある。約束に遅れないためには交通状況を予測して家を出ないと、大事な商談を失うことになる。明日の天候を考慮しないで身支度をすると、木枯らしで大風邪をひくことになりかねない。
ところが人間はこういう有益な心配だけをするわけではない。「来年の人事異動で大嫌いな上司と一緒になったらどうしよう。」「日本の上空にオゾンホールができたらどうしよう。」天が落ちてくるとまでは言えないが、考えてもしょうがないことを心配する。そしてその多くは杞憂に終わるのだが、そうするとまた別のことが心配になる。
ところで、先ほど後悔の無益さについて話をしたが、実は後悔は無益であるばかりか将来に対する不安を生み出す大元でもある。「あの時やってしまたことがばれたらどうしよう。」、「あんなふうに決めなければ今のような状況にはなっていなかった、これからいったいどうなってしまうのだろう。」、「あんなつらい思いはもうたくさんだ。だけどまたあんなふうになりやしないか。」といった具合にである。
こうして私たちは杞憂を沢山抱え込むことになる。特に、うつ状態になると楽しいことは想い出さず、いやなことつらかった過去、不安なことばかりが次から次に頭に浮かんでくる。そうして目の前にある課題に集中することができず身動きが取れなくなってしまう。
ところで、こういった不安は全くあり得ないことなのだろうか。残念ながらそうではない。マグニチュード9を超える大震災を誰が予想したろう。それまで地震恐怖症と扱われていた人の不安は3月11日を機に杞憂と笑うことはできなくなった。また、小惑星の地球衝突は、いずれは不可避と考えられている。天が落ち地が崩れることだってあながち馬鹿げた心配ではないのだ。こう考えると心配すべき心配と、心配する必要のない心配との間に明瞭な線を引くことはできない。
実は杞憂のもとになった寓話には続きがある。
天が落ち地が崩れることを心配する男を心配する男がその男に言ってきかせた。「天というものは気の積み重なったものに過ぎない。気はどこにでもあって、私たちもその気の中で生きているのだ。どうしてその天が落ちてくるなどと心配するのかね」
「天がほんとうに気の積み重なったものなら、日や月や星は落ちてくるだろう」
「日や月や星もやはり気の積み重なりで、その中のかがやきを持ったものにすぎないのだ。だからたとえ、落ちてきたとしても、あたって人にけがをさせるというようなものではない」
「地が崩れたらどうしよう」
「地というものは土の積み重なったものにすぎない。土は四方にみちふさがっていて、どこにでもあるものだ。人が歩いたり踏みつけたりするのは、みんな一日中、地の上でやっていることなのだ。どうしてその地が崩れるなどと心配するのかね」
心配していた男は釈然としておおいによろこんだ。
それを見るといいきかせた男もおおいによろこんだ。
この話を聞いた賢人がこう言った。「天地が崩れはしないかと心配するのは、あまりにも先の心配をしすぎると言わなければならないが、崩れないと断言することもまた正しいことではない」
「天地が崩れようと崩れまいと、そんなことに心を乱されない無心の境地が大切なのだ」。
つまり、心配を実現性の大小で議論しても意味がない。心配することが役に立つならば大いに心配すればよい。しかしいくら心配しても自分の力ではどうしようもないことは放っておくしかないのだ。地震で言えば、防災グッズを備えて避難路を確認したら後は運を天に任せるしかないということである。
ところが無心の境地と言われても凡人がたやすくそんな境地になれるわけはない。理性では天文学的な確率でしか起き得ないと分かっていても頭からその心配を払拭することはできない。それが人間なのだ。ましてやうつ状態に陥った人に無心の境地を説くこと自体が酷というものである。それではそういった不安にどう対処したら良いのか。
私は以前、登山家から山登りの極意を聴いた。
「高い山に登る時は、いつも視線は自分の足元から1~2メーター先に固定すること。あまり上を見るとこんな崖を登れるのだろうかと不安になる。一方下を見るとこの絶壁を落ちたらどうしようと足がすくむ。1~2メーター先を見つめて一歩一歩進んで行くと、いつの間にか頂上へ着く。」
不安が強い患者さんと接するとこの言葉を思い出してこう言うことにしている。「過去を振り返ってもやり直しはききません。あまり先のことを考えても予測不可能です。今日と明日のことだけを考えて一生懸命生きましょう。気が付くと日を重ねて多くのことを成し遂げています。」