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クリニック西川

2011年12月

死語を復活させよう

ケニア出身の環境保護活動家、ワンガリ・マータイ女史は、本家の日本で死語となりつつあった「もったいない」という言葉を世界に広めてノーベル平和賞を受賞した。
「もったいない」に限らず、戦後数十年で死語と化しつつある日本の言葉や喩え、ことわざが多数ある。その多くは「みっともない」で代表される「恥」に関連した言葉ではないだろうか。「後ろ指さされる」、「親の顔が見てみたい」、「人様に顔向けができない」などなどである。
他人、世間から見られて恥ずかしくないような行動をするという訓えは、徳川時代から太平洋戦争終結までの日本を支えてきた行動理だ。「恥」は儒教を基盤にした武士道の重要な要素であった。
戦後もしばらくの間は「恥ずかしくない」ということを行動規範にする人が多かった。この人生観は精神障害の症状にも反映されていた。つまり、私が学生や研修医であった頃は、我が国の精神障害は「恥」の意識を基盤とする対人恐怖症状が圧倒的に多いとされてきた。一方、キリスト教を信仰する西欧では神との契約を破ることへの「罪」に基づいて、自分を責める抑うつ状態が多いと教えられた。
ところが近年、我が国でも精神の不調の大半が抑うつになってしまった。この理由の一つには診断法の変更がある。アメリカ精神医学の操作的診断法を採用することによって、神経症という疾患概念自体がなくなってしまった。対人緊張を主体とする神経症患者の行き場がなくなってしまったのである。
しかし、この診断方法の変更を割り引いて考えても、我が国の精神科医を訪れる患者さんの主症状は対人恐怖から抑うつに移り変わったように思う。それは日本人の心の中から恥の文化が急速に衰退していったことに起因しているのではないだろうか。
政治の世界に目をやってみよう。現在、坂本竜馬のような志を持った政治家がただの一人でもいるだろうか。口からでる「国益」、「国民のため」という言葉の裏に「私益」、「己のため」という本音が透けて見える。官僚もそうだ。ヨーロッパ列強の侵略を食い止め、我が国を近代化させた明治政府の官吏の気概はどこへ行ったのだろう。今は優秀な頭脳をひとえに自己利益と保身に活用している役人が多すぎる。民間に目をやっても大差はない。己の生業が社会の役に立つという誇りをもって会社経営している者がどれだけいるか。マネーゲームによって自社株の時価総額に一喜一憂している金の亡者が少なくない。いくら裕福で立派な肩書を持っていても、恥知らずでみっともない奴が多すぎるのだ。

日本人が「恥の文化」に変わって「罪の文化」を獲得したかといえば、そうではない。クリスマスやハロウィンで大騒ぎをしてもそれはただお祭り騒ぎが好きなだけ。信仰心とは程遠い。本質的に神と対峙する信仰を持たない日本人は、それまで拠り所としてきた「恥」をも失って、畢竟、精神の基盤を持たない流浪の民となってしまった。
ところが人間は何らかの道標がなければ安心して行動できないものである。そこで現代の日本人が行動規範として選択したものは「金」ではなかろうか。みっともなくても罪深くても金を稼げば成功。誤った勝者の論理だ。喰うものも手に入らない戦後闇市の時代に進駐軍が持ち込んだ甘いチョコレートによって、いつしか我が国は拝金教の国となってしまった。
高度成長、バブルと私たちは自分の足元を見ることを忘れていた。しかし、祭りは終わった。バブル崩壊によって我々が唯一拠り所としてきた拝金教にもはっきりと影が見えてきた。今の私たちは己の行動の範とすべきものを何一つ見いだせないでいる。
現代型うつ病の急増にもこうした背景があるのではないだろうか。恥いることもなく、ましてや罪の意識などないから他罰的になって、ただただ憂うつで不機嫌になる。
混迷する現在の日本を救うには、私たちの行動の拠り所を取り戻すことが不可欠だと考える。そこで、私は日本人の行動規範として、「もったいない」に加えて「みっともない」の復活を切望する。さらに、この二つの精神は日本人のみならず、ますます過密状態となる地球で、世界中の人々が上手に生きていくためのキーワードになるはずだ。

盗人に鍵―監視強化が求められる成年後見制度―

私は今年5月のコラム「ガス灯症候群」で、本来、認知症や知的障害などで自己の安全や財産を保全することが困難な人を守るための成年後見制度が悪用される危険性に警鐘を鳴らした。すなわち、認知症の方が、彼らを守るべきこの制度によって、かえって安全や財産を脅かされてしまった例を示した。そして、この手の犯罪が増えるのではないかとの懸念を述べた。
豈図らんや、先日の新聞記事で後見人の不正による被害額が昨年の6月から今年の3月までの10ヶ月だけですでに18億円を超えていることを知った。また、昨年1年間に不正によって後見人を解任された人は286件で後見制度開始時の8倍に増えた。奸智に長けた人は私の予想よりもはるかに急増しているということだ。
さらに、本人の意にそぐわない待遇にされてしまうなど、金額で表すことのできない被害を考慮すると、この制度による被害は想像を超えたものであるに違いない。
後見人には弁護士、司法書士、社会福祉士といった専門職が就くこともあるが、6割以上が親族である。そして身内は善意の後見者であるとするのがこの制度の前提である。
しかし、現実はそう甘くはない。目の前に大金の山。そしてその横にいる持ち主の老人は状況判断ができず、すぐに物事を忘れてしまう。こういう状況で不埒な考えが湧かない方が不思議かもしれない。殊に自分自身が経済的に困窮していたらついつい喉から手が出てしまうだろう。
しかも後見の仕事は予想以上に時間と労力を要求される。わが子でも負担に感じることが少なくない。甥、姪といった立場の人の場合、少々の対価を望んだとしてもやむを得ないとも言える。
ともかく悲しいことではあるが、人間性善説を拠り所とする成年後見制度は世知辛い現代社会においては期待通りには機能しないことが明らかとなったと言える。

後見人の不正が相次ぐことを看過できず、法務省は支援信託を来年2月から開始することとなった。この方法は被後見者の財産の大半を信託銀行に預け、残りの少額の財産と年金などの収入だけを後見人が管理するというものである。纏まった金が必要な時にはその都度、後見人が裁判所に申請する。家庭裁判所が審査のうえ妥当と認めれば指示書を発行。後見人は信託銀行に指示書を提示して払い戻しを受けることになる。
この支援信託は後見者の不正防止には役立つが、信託銀行への委託料分だけ被後見者の財産が目減りしてしまう。また、後見業務が一層煩雑なものになってしまう。将来引き継ぐはずの財産があまり多くない場合、後見の引き受け手がなくなる危険性がある。
専門職が後見人であれば不正は起きにくいが、後見業務の割に報酬が少ないためになり手が少ないのが現実である。その上に、弁護士や司法書士が必ず公正無私に後見に携わるかといえば、必ずしもそうとは限らない。もし法を知り尽くした彼らが悪魔の誘惑に負けた時は親族よりももっとたちが悪い。
もともと成年後見制度には、後見人の活動状況をチェクする後見監督人を置くことができるのだが、残念なことに実際にはうまく機能していない。この世はお釈迦様のような心を持った人ばかりではないのだから、誰が後見人になっても、また信託銀行を利用したとしても、後見監督人を十分に機能させることが必要不可欠だと考える。
お年寄りの金庫番の役割をするはずの後見制度が盗人に鍵を預けることにならないように、皆で知恵を絞らなければならない。

ぴんころの奨め

井上陽水の初期の作品に「人生が二度あれば」という歌がある。苦労を重ねてきた両親の姿を見て二人がもう一度青春をやり直せたらと望む息子の気持ちを歌った唄だ。
秦の始皇帝は中国を統一しこの世で臨むものすべてを手に入れると不老不死の仙薬を求めて部下に命じて伝説の蓬莱の国へと赴くよう命じた。ヒトラーも不死の研究をさせていたようだ。不老不死あるいは再生は人間の永遠の願望であるらしい。
自分のこれまでの人生を振り返ってみれば、後悔すべき出来事は多々あるし、60年の年の功を持って青春をやり直せば今少し業績を残せるかもしれない。しかし、実際に人生をやり直しさせてやると提案されたとしたら、私はおそらく逡巡してしまうだろう。
野次馬根性旺盛な私だから、人生のターニングポイントで別の決定をしていたらその後の人生がどう展開したか、興味津津ではある。しかし、それは傍観者として眺めてみたいという話である。実際にやり直すとしたら、またくそ面白くない勉強をして、嫌いな試験を受けなければならない。まっぴらごめんだ。
それに、違った決定がより良い結果に結び付くという保証もない。畢竟、人生とは「待った」の効かない一度きりの大博打だからこそ、かけがえのない宝物と言えるのではないだろうか。
とは言っても、私がそう言えるのは自分のこれまでの半生にそれなりの充足感と感謝を覚えるからなのだろう。辛酸を嘗めるような悲惨な出来事しか記憶にない人は、やはりやり直したいと切願するだろう。生まれて以来ずっと、親から虐待を受けている子供等は誕生そのものをやり直したいと思うに違いない。
人生やり直し願望の強さはそれまでの体験によって人それぞれかもしれないが、不死願望はどうだろう。こちらも各人各様である。私はことさら早死にしたいとは思わないが、社会や家族に貢献できなくなったならば死にたいと考えている。みんなのお荷物になって老醜をさらしたくない。人は生きていると必ず人には言えない恥ずかしい秘密を増やしてしまう。不死を望まない理由はそこにある。自分の中に溜まっている恥をこれ以上増やさないでリセットしてしまいたいというのが本音である。
私に限らず、殆どの人が「そういつまでも長生きはしたくない」と口では言う。しかし、よく見ると本音では「一分一秒長生きしたい」を願っている人が少なくない。中には「この人は不老不死を真面目に信じているのではないか」と疑いたくなる人もいる。きっとこういう人は一点の曇りもない澄み切った人生を歩んできたのだろうが、私には想像できない。

人生のやり直しや不老不死に関する考え方は人それぞれだが、万人に共通した願いは「苦しまない死」である。誰もがトンコロリと死ぬことを願っているのだ。
長野県佐久市には「ぴんころ地蔵」が祭ってある。ぴんぴん生きて、ころっと死ぬという、誰しもが希求する生き方を求めて全国からお参り客が後を絶たないという。実際に長野県は長寿県であり、その中でも佐久市は男性、女性ともに飛び抜けて長寿である。65歳以上の高齢化率は全国平均が21.3%に対して、佐久市は25.2%。また、100歳以上の超高齢者の人口比率は全国平均が25.28/10万人なのに対して佐久市のそれは71.92/10万人である。一方、寝たきり老人の比率は全国平均の半分程度、認知症で生活に支障を期待している高齢者の比率も全国より下回っている。その結果、高齢者の一人当たりの年間医療費は全国平均の83万円を大きく下回り65万8000円にとどまっている。つまり、健康なお年寄りが多い地域と言える。
佐久市が長寿市である理由は自然豊かな自然環境に因るだけではない。まずは持家比率が高く、2世代、3世代同居世帯が多い。さらに従来から地域密着医療の先駆け的存在である佐久総合病院を中心として、市をあげて高齢者の健康保全に力を注いでいる。保健指導活動、食や運動など保険福祉に関する教育・実践活動に力を注いでいる。
保健、福祉にお金をかけるとそれ以上の医療費削減につながるとして全国の自治体が佐久方式を勉強している。こういう活動は福祉関連支出の削減よりも何よりも、お年寄り自身が望むぴんころ死を実現する可能性を高めるということがもっとも素晴らしい点である。
一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、ころっと死ぬためにはそれまでぴんぴん生きていなければならない。どこかに重大な持病を抱えていると、ころっと死ぬ前に、その病気で長い期間苦しまなければならないからだ。
たとえば、高血圧、動脈硬化の果てに脳卒中を患えば、相当長い期間半身不随あるいは寝たきりの生活を余儀なくされる。糖尿病で腎不全になれば死ぬまで週3日は透析を受けなければならない。
日頃から健康でぴんぴん生きていれば、すべての臓器や器官が自然に老化していき、各人の持ち時間がくると一斉に「それではみなさんさようなら」と活動を停止する。それほど苦しまずに三途の川を渡ることができる。この死にざまを「天寿を全うする」と言うのだろう。
ここで一つ皆さまが大いに勘違いしやすい点がある。ぴんぴん生きるということは、長生きすることを目的に健康状態に汲々として生き長らえる状態を言うのではない。心身ともに充実した日々を送った結果、長生きをするということなのだ。長く生きることは結果であって目的ではない。明日お迎えが来るかもしれないから、今日この時を実りある1日にしようという姿勢こそがぴんぴんなのだ。だがしばしば生きる目的と結果が取り違えられて、ただの健康オタクを増やす結果となる。
だが実際は、ぴんころを実践した超高齢者には健康オタクは少ない。亡くなる間際まで畑仕事をし、酒と煙草をたしなむ生涯現役の人が多いのだ。
こう考えてみると、ぴんころをより多くの高齢者に実践してもらうためには健康教育も必要だが、お年寄りに家族や社会の中で活躍できる一定の役割を与えてあげることこそがもっとも重要なのかもしれない。
ますます進行する超高齢者社会に対して介護施設を増設するだけではなく、もっとお年寄りに活躍していただく場を増やす必要があるのではないだろうか。

精神科診断の混乱が生んだ現代型うつ病

最近我が国に登場し、急速に社会問題化されてきた病名がある。それが現代型うつ病である。
現代型うつ病は新型うつ病あるいは逃避型うつ病とも呼ばれ、社会的に認知されつつあるが、医学的に定義された正式の病名ではない。特徴としては比較的若い世代(20~30代)の勤労者に多く見られ、①仕事などの嫌なことはできないが、趣味のことや友人との飲み会などには活発に参加する、②人の評価を極端に気にする、③プライドが高くそれを守ることにエネルギーを消費する、④抑うつ気分はあまり目立たず倦怠感、易疲労感、億劫さが主症状、⑤自責感がなく、他罰的で人を責める⑥このために円滑な対人関係を維持することが難しい、などである。この他、従来のうつ病が不眠を呈することが多いのに対して過眠を呈することが多く、食欲に関しても従来のうつ病のように食欲不振になるのではなく、むしろ過食して太ってしまうことが多い。
こういう若者の絶対数が増えているのか否かは分からないが、昔に比べて敷居が低くなり、駅前ビルに乱立するメンタルクリニックに受診する人の中にこういうタイプの患者さんが増えたのは間違いない。
現代型うつ病が社会問題となっている理由は医療と産業活動との両分野における困惑にある。医療面では狭義のうつ病に奏功する抗うつ薬への感受性が低い。また、休息をとらせて義務から解放するという従来のうつ病に対する精神療法では解決しない。このために、いたずらに抗うつ薬を始めとする向精神薬の処方が長期間にわたり、しかも事態はいっこうに改善しないという状況が増えている。
企業はその対応にもっと混乱している。仕事を覚えてもらおうと少し厳しく指導すると不調を訴えて出社しなくなる。金曜日には元気にしていたのに月曜日になると遅刻や欠勤を繰り返す。やがて「うつ状態」という診断書を提出して長期休暇に入ってしまう。療養中のはずなのに仲間からの誘いには応じて飲み歩いている。中には海外旅行で真っ黒に日焼けしてくる者までいる。厳しく叱責あるいは解雇したいところだが、診断書が出ている以上そういうわけにはいかない。いったいどう対応してよいのか皆目見当が付かないのである。
家族も同様に戸惑っている。「うつ病の人は励ましてはいけない」という教えが広く啓蒙された。この原則に従って接していても、いっこうによくならない。お昼近くに起きてブランチをとると、夕方までパチンコ屋にいる。夕食後は明け方までパソコンに向かって何やらやっている。業を煮やして「早く仕事に戻るためにも早く寝たら」と注意すると、「そんなふうに強制されると余計やる気が出なくなってしまうじゃないか」と逆に本人から叱られてしまう。患者を取り巻く多くの人がどう対応してよいか分からずに困惑しているのだ。

だがちょっと待ってほしい、そもそもこの病態をうつ病と呼んでよいのだろうか。従来型の診断法を教えられてきた私には、現代型うつ病と称される患者の多くがうつ病とは考えられないのである。
ドイツ精神医学を基礎とする従来の精神医学では症状のある無しだけではなく、深く病因論にまで踏み込んで診断した。すなわち、遺伝歴、生活歴、病前性格、内因および環境因の関与の度合い、経過診断、似た症状を示す身体疾患や薬剤性疾患からの鑑別などを総合判断して診断した。
また、それぞれの因子はただ単に羅列するのではなく、より重要なものとあまり重視しないものに重み付けされた。たとえば、うつ病の精神症状としては、憂うつ、悲哀、億劫、不愉快、絶望、厭世、悲観、不満、寂莫、優柔不断、屈託、羞恥、罪悪・自責感、後悔、当惑などが挙げられるが、憂うつ感や罪悪・自責感を羞恥や当惑などと等価には扱えない。罪悪・自責感は本当のうつ病(内因性うつ病)と診断するためにはかなり重要な症状となる。この点から言って、自分ではなく他人を責める傾向の患者にうつ病の診断はつけがたい。
また、億劫でやる気が湧かないという症状についてだが、本当のうつ病の患者は楽しいはずのこともできなくなる。仕事はできないが旅行は楽しめるという病態にうつ病と診断するのは難しい。

1980年にアメリカ精神医学会が発表したDSM-Ⅲの登場以来、病因論に深く踏み込んだ従来型の診断は精神症状のみを統計的に扱った操作的診断法にとってかわられた。従来型の診断は医師の主観的な判断によるところが多く、技量の差によって診断が異なることが珍しくなかった。すなわち、以前の診断では極めて多数の因子の解析と総合判断力が要求されるために、卒業間もない研修医とベテランの精神科医とでは異なった診断になってしまうことが多かったのだ。また、権威者の独断が客観的な判断を妨げることもあった。DSMやICDの普及はこういった点を補正して誰もが同じ診断になることを目指し、世界中に広まった。
事実、症状リストをチェックして簡単に診断名に辿り着く操作的診断では未熟な研修医でも、看護師、ケースワーカーといった医療周辺スタッフでも同じ診断名に辿り着く可能性が高くなった。
こうして、共通の診断名で多くのスタッフが語れるようにはなった。それどころか、患者自身がチェックリストを使って簡単に自己診断できるようにさえなった。その共通の診断レベルが高かったならば文句なしである。ところがそうはいかなかった。全員が低いレベルの診断で喧喧諤諤議論する事態になってしまったのだ。
考えてみれば至極当然のことで、どんな物事でも習熟の度合いによって成果に差が出るのが当たり前のことではないだろうか。研修医が見逃していた胸のレントゲン写真の陰影をベテランの放射線科医師が見つけることができるのは当然である。ベテランの工員が作った工作部品と新人のそれとに差があって当たり前だ。それと同じことである。デリケートで包括的な精神症状を前にして、習熟度に関係なく同じ診断ができるはずが無い。もしそれができるのならば医学教育は無用の長物と化す。
さらに、売りの一つである客観性さえ怪しいものである。なぜならば、いくら診断基準を列挙して「幾つ以上の項目が満たされれば○○○と診断する」と、一見客観的で科学的なように見えても、それぞれの症状を検知する能力に差があれば診断は大きく異なってくる。入口を間違えれば正しい出口に辿り着く筈がないからだ。
結局、操作的な診断法の台頭が精神科医の診断技能の低下をもたらした、と私は思う。チェックリストを見て診断し、無定見にSSRIを処方するメンタルクリニシャンが多くなってきたことは嘆かわしい限りである。現代型うつ病とはこういった精神医学の混乱が生み出した鬼っ子ではなかろうか。

私は、現代型うつ病と称される一群の患者さんの中には、すでに死語となってしまった神経症やヒステリーの患者さんが少なくないように思えるのだが、それは私が古臭い精神科医だということなのだろうか。
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